てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(7)

2007年08月13日 | 美術随想


 日本シュルレアリスム絵画の代表選手のようにいわれる古賀春江には、しばしば意外なエピソードが付きまとう。まずひとつは、優美な名前とは裏腹に、この画家は男性だということである。ついでにいえば、彼が青木繁や坂本繁二郎と同じ久留米出身であるということも、やや意外といえば意外であろう。

 そしてもうひとつは、あの川端康成が彼の絵を非常に愛好していたということである。ただ、これは川端に対する一面的な見方にすぎないともいえそうだ。日本で最初のノーベル文学賞に輝き、受賞記念講演で「美しい日本の私」いうスピーチをした川端は ― ある政治家が標榜している「美しい国」という意味合いとはまったく別のものであることはいうまでもけれど ― 日本の古典美の伝道者か、あるいは擁護者であるかのような印象をもたれているのかもしれない。

 もちろん川端にそういう一面があることはたしかで、国宝である『十便十宜図』や『凍雲篩雪図』を所蔵していたことはよく知られている。しかしその一方で彼が前衛文学の旗手でもあったという事実は、急速に忘れ去られようとしているのではなかろうか。特に初期の小説には実験的なものが少なくない。川端が古賀春江の絵画に親近感を覚えたのも、まだ無名だったころの草間彌生の絵を買い求めたりしているのも、理由のないことではないのだ。川端自身、随筆の中で次のように記している。

 《私は常に文学の新しい傾向、新しい形式を追い、または求める者と見られている。新奇を愛好し、新人に関心すると思われている。ために「奇術師」と呼ばれる光栄すら持つ。もしそうならば、この点は古賀氏の画家生活に似通ってもいよう。古賀氏は絶えず前衛的な制作を志し、進歩的な役割をつとめようとする思いに馳(か)られ、その作風の変幻常ならずと見えたため、私同様彼を「奇術師」扱いにしかねない人もあろう。》(「末期(まつご)の眼」『一草一花』講談社文芸文庫)

 古賀春江が最後に仕上げた油彩画『サーカスの景』(上図)は、彼の「奇術師」たる一面を代表しているようにも思われる。38歳の若さで没した古賀は、進行性麻痺とかいう難病に侵されていたそうだ。これが具体的にどのような症状を呈するものかはわからないけれど、病名から察すると体の自由がきかなくなるのであろう。画家にとっては致命的な病気というべきである。『サーカスの景』は比較的大きな絵であるが、そのような艱難辛苦を乗り越えてようやく描き上げられたのだ。

                    ***

 「奇術師」という言葉から連想すると、ごく最近の次のようなニュースを思い出さずにはいられない。日本を代表する女性イリュージョニストが ― この人は古賀とは反対で、女性にもかかわらず名前は男性だ ― 公演中に重傷を負い、全治一か月と診断された。しかし彼女は、一週間後にはもう舞台に立っていたのである。これこそを「奇術」と呼ばずして、いったい何と呼べばいいのだろう?

 『サーカスの景』も、まさに「奇術」のような作品だ。筆づかいにはたしかに衰えもみられるけれど、そこには透きとおるような高潔な世界がある。のみならず、観る者を微笑ませるような無邪気ささえもただよわせている。瀕死の病人が、このような絵をはたして描き得るものであろうか。展覧会の解説でも引用されていたように、川端康成は驚きの眼を見張っている。

 《百号三点の力作を前にして、古賀氏の病状をよく知っている私は、むしろあきれ返ったものであった。にわかに信じられぬくらいであった。例えば最後の「サアカス景」など、下塗りする体力がもう失われ、手に絵具を掴むかどうかして、体をぶっつけるかのように、画布と格闘するかのように、掌で狂暴に塗りなぐって、麒麟の脚を一本書き落しても、気がつかずに平然たるものだったそうである。そうして出来上った絵が、どうしてあんなにしいんと静かなのか。》(同上)

 “塗りなぐる”という聞き慣れない単語に、病気をねじ伏せても制作へ立ち向かおうとする画家の苦しみが如実にあらわれている。だが見落としてはならないのは、今のくだりより少し前に書かれている次の文章だ。

 《作者自らあの絵について、なんとなくしいんと静かでぼんやりした気分を描こうとしたと、語っているではないか。》(同上)

 古賀春江は、自身の病状如何にかかわらず、しいんと静かな絵を描こうと最初から決めてかかっていたのである。そしてそれは、見事に達成されたというべきだろう。古賀も、そしてあの女性イリュージョニストも、驚嘆すべき“意志の人”だったのだ。

                    ***

 川端康成は周知のとおり、自分の手で命を断った。彼がそこまで追い込まれた事情を、ぼくは知らない。しかし、かつての古賀春江の死にざまが少しでも彼の頭をよぎっていたら、とは思う。世界的な文豪にまでのぼりつめていた川端は、すでに「奇術師」ではなかったのである。

(神奈川県立近代美術館蔵)

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