てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(8)

2007年08月16日 | 美術随想


 抽象画家の津高和一のことは、以前にも2度ほど取り上げたことがある(「瓦礫の下から」「津高和一ふたたび」)。彼は兵庫県の西宮市に在住していたが、1995年が明けて間もない1月17日の未明、阪神大震災のために命を落とした。

 前に書いたことの繰り返しになるが、ぼくは地震から数日後に、西宮に住んでいた知人の安否をたずねようとしていて、瓦礫と化した津高の自宅の前をたまたま通りかかったのだった。なぜそれがわかったかというと、そこには画家の死を告げる手書きの貼り紙が貼られていたからである。長らく大阪芸大の教授を務めていた津高には、今でも多くの教え子たちが関西近辺に住んでいるようで、貼り紙は彼らの手によるものらしかった。

 その翌年に開かれた津高和一の追悼展で、潰れた家の中から発見されたという彼の遺作が公開されているのを観た。これも弟子たちによって運び出されたものだという(もし彼らが発見してくれなかったら、瓦礫と一緒に処分されていたかもしれない)。傷ひとつないキャンバスの上に塗り重ねられたみずみずしい絵の具の輝きは、まるであの惨状をくぐり抜けてきたとは思えないほどに美しく ― 津高の家は原形をとどめないほどに崩れ落ちていた ― 人間の命と芸術の命ということについて、ぼくは深く考えさせられたものであった。

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 あれから12年も経った今では、神戸の街も西宮の街も、震災の痕跡を探し出すのが困難なほど復興している。そして人々の記憶の中からも、あの日のことは少しずつ、だが確実に消え失せようとしている。しかしその一方で、未曾有の災害を後世に語り継ぐべくさまざまな努力がはらわれていることもたしかだ。

 震災後数年の間は、一見すると元どおりになったかに見える神戸の街並みの中にも、よく見るとねじ曲がった道路標識がそのまま立っていたり、壊れた電話ボックスが放置されていたりした。歩道を歩いていると不意に足をとられ、敷き詰められたタイルがそこだけ不自然に盛り上がっているのに気づくこともあった。だが、今の神戸ではそのようなこともほとんどない。おしゃれで垢抜けた都会としてすっかりよみがえった街を前に、あのときの悲惨な状況を思い出せといわれても、なかなか難しいことであるにちがいない。

 ・・・だが、これは身内からひとりの犠牲者も出なかった者の勝手な言い分であるかもしれぬ。ぼくにとってあの日の震災は、これ以上考えられないほどの恐怖の経験ではあったが、修復不可能な傷跡を残しはしなかった。ぼくの中では、すでに傷口は癒えてしまっているのである。いくら想像力をたくましくしても、肉親を家屋もろとも奪い去られてしまった人々の立場にはなれないし、その心境をおしはかることすらとうていできない。ものごとを経験することと、しないこととの間には、天と地ほどの断絶があるのである。

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 だからといって、震災のことを忘れてしまったわけではもちろんない。

 ぼくにとって津高和一の存在は、今や単なる抽象画家の域を超えてしまった。すべては地震から何日目かのあの日に、偶然彼の家の前を通りかかったことに起因する。そのときすでにぼくは津高の絵を何枚か観たことがあり、頭でっかちな抽象絵画の多い中で、理性の壁をゆっくりと溶かしていくような彼の作品世界に魅了されていた。

 ただ、彼が西宮に住んでいるということは、そのときまでまったく知らなかったのである。知ったときには、その家はすでに粉々になっていた。ぼくの頭の中で、大震災と津高和一という画家の死とは、分けては考えられないひとつの記憶になった。おそらく、肉親を亡くした多くの人にとっても、そうであるように。

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 このたび、追悼展以来およそ11年ぶりに、その遺作と再会した。『作品』(上図)と題されていたが、それが津高本人によって名づけられたものかはわからない。瓦礫の下から発見されたにもかかわらずこの絵が無傷だったのは、箱に入れられていたためだと書かれていた。改めてよく観てみると絵の左下にはサインが書かれていて、94という年記もある。震災の前の年には仕上げられ、どこかに搬出されるのを待つだけだったのかもしれない。

 いずれにせよ、この絵は津高の死によって中断されたわけではなく、すでに完成されていたものであった。画家自身、この絵が絶筆として日の目を見ることになろうとは夢にも思わなかったはずである。いわば、ここには死を予感させるものは何ひとつ描かれていないのだ。

 この理不尽な事実に直面するとき、ぼくは大いにとまどってしまう。画家はおそらく、いつもどおり無心にこの絵を描き上げたにちがいないが、それを無心に鑑賞することなど、とてもできそうにない。この絵が埋もれていた瓦礫の山を、ぼくは実際に見てしまっているのであるから。

(西宮市大谷記念美術館蔵)

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