てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.12

2008年04月09日 | 五十点美術館
村上華岳『夜桜之図』


 村上華岳というと、不遇だった晩年のことがまず思い浮かぶ。

 若いころには、閉鎖的な日本画の革新を掲げた国画創作協会(現在の国画会の前身)に参加し、京都を舞台に華々しく活躍したこともあった。しかし後には画壇との交渉を絶ち、神戸の花隈というところに隠棲して、持病の喘息に苦しみながら51歳で没したという。ぼくもかつて小児喘息をわずらっていたので、華岳の味わった苦しみのいくぶんかはわかるつもりだ。

 彼が残した多くの仏画や、鬼気迫るような六甲の風景画は、昭和初期に描かれた異色の日本画として多くの人の心を惹きつけているだろう。その一方で華岳には、内向的で陰気な、悲愴ともいえるイメージが絶えずつきまとっているのではなかろうか。

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 しかし若いころの華岳は、軽妙な舞妓の姿を何枚も描いている。後期の作品にはほとんどあらわれない妖艶な赤色が、ところ狭しと踊っているのには驚かされる。また彼は浮世絵の研究もしていたそうで、この『夜桜之図』には、「浮絵」と呼ばれる極端な遠近法を用いた構図の影響が明らかだ。

 この絵は大正2年のものだが、市民たちは江戸時代の出で立ちで描かれている。花見の習俗は、昔も今もほとんど変わらないらしい。画面の手前半分にはすっかり赤い毛氈が敷き詰められ、その上で人々がてんでに酒を酌み交わしている。現代のお手軽なカラオケセットの代わりに、三味線がかき鳴らされる。無数のぼんぼりや提灯が灯され、これでは肝心の桜が隠れてしまうのではないかと心配にもなってくる。実際のところ、『夜桜之図』とはいいつつも、桜は背後に追いやられてほとんど目立たない。

 座敷の向こうには、右から左へ、左から右へとそぞろ歩く人波。ひとりひとりの表情が、実に細かく描きわけられている。人々の声にならないざわめきと、その合い間に浮かんでは消えるチントンシャンのか細い音色が、今にも耳に聞こえてくるような気がする。これほど臨場感にあふれた花見の絵というのを、ぼくはほかに知らない。

 絵の舞台は幕末だが、京都で絵画を学んでいた華岳は、やはり当時の京都の夜桜を見て着想を得たのだろう。・・・と、こんなふうに思いたいところだが、絵を観れば観るほど、ここは京都ではないような気がしてくる。何人かの綺麗どころの姿も、やはり舞妓というよりは芸者であるし(といってもぼくは芸者をよく知っているわけではないのだが)、何よりも全体からただよってくる威勢のよさというか、庶民の底力のようなものが、ふつふつと感じられる。夜桜見物の人込みは、渋谷のスクランブル交差点の雑踏とどこかで通じているのである。

 ということは、この絵は華岳が浮世絵研究の成果を踏まえて頭のなかで作り上げた、まったく架空の風景だったのだろうか。そういわれてみれば、やはり添えもの的な桜の扱いが気にかかる。彼が描きたかったのは、風流な夜桜などではなく、いやむしろ桜を圧倒し去りかねないほどの、パワーにみちた人々の生きざまだったのだ。

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 村上華岳の経歴を見ると、生まれたのは大阪の松ヶ枝町となっている。地図を開いてみると、だいたい東天満のあたりであるが、ぼくが大阪に来て最初に就職した会社のすぐ近くなので驚いてしまった。

 さらに地図をたどっていくと、桜の通り抜けで有名な造幣局がすぐそばにある。この行事は何と明治時代からつづいているということで、若き村上華岳もおそらく、爛漫と咲き乱れる桜の下を通り抜けたことがあったにちがいない。

 『夜桜之図』には、そのときの印象がいくらか反映しているのかもしれない。そういえば中段に描かれているそぞろ歩く人々は、まさに桜の下を通り抜けているところだ。この絵は、江戸の浮世絵となにわの春の風物詩とが見事に合体した、現実にはあり得ない桜の名所を描いているのだろう。

(京都国立近代美術館蔵)

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1 コメント

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Unknown (Kat)
2018-04-03 10:31:28
平野神社の光景との説があります。
村上華岳が、住んでいた衣笠の近くにあります。
今もこのような光景が、毎春見られます。
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