てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.15

2008年05月11日 | 五十点美術館
鈴木其一『藤花図』


 毎年、藤の花を見にいこうと思って果たせていない。ツツジの見ごろに合わせた蹴上浄水場の公開に先立ち、南区の鳥羽水環境保全センター(いわゆる下水処理場)では藤の花が咲く時季に一般公開があるのだが、入院と重なったので行けずじまいだった。というわけで、ウェブ上観賞会である。

 藤の花は、まことに変わった花だと思う。真下につらら状にぶら下がる花なんて、そんなに多くないのではなかろうか。枝垂桜など下に向かって垂れ下がる花はあるけれど、垂直に下がっているわけではない。満開の藤棚の下に入ると、まるで藤色の滝を一身に浴びているような気がするだろう。

 そのせいか、藤の花は昔から愛されてきたようだ。花札に描かれているのはもちろんだし、家紋にもよく登場する。大津絵には藤娘の姿が描かれ、日本舞踊にもなっている。モネは自邸の庭の太鼓橋に藤の蔓をからませたという。ひまわりみたいに、太陽に向かって元気に咲き誇る花にはない独特の風情が、人々を惹きつけるのかもしれない。

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 「藤色」と書いたが、実際の藤は紫色の花弁と白っぽい花弁がセットになって咲いているので、その両方が眼のなかで混ぜ合わされてできた色かもしれない。まるで印象主義の理論のようだ。モネがこの花を好んだのもうなずける。しかし残念ながら、藤の花を克明に描いた西洋絵画というのをぼくは観たことがない。

 鈴木其一(きいつ)の『藤花図』は、日本の藤の絵のなかでも代表的なものだと思う。まさに題名のとおり、藤の花だけがクローズアップで描かれている(応挙にも有名な藤の絵があるが、横長の屏風に描かれているせいか、やや引いた構図になっている)。絵の縦の長さは1メートル以上あるのだが、ほとんど上から下まで藤の房で占められている。ほぼ原寸大か、それより少し大きいぐらいだろう。

 紫と白の重なり具合が非常に細かく描かれていて、ていねいな仕事ぶりに感心せざるを得ない。いわば、ちょっと大ぶりな点描画のようである。紫と白が網膜の上で溶け合って、やわらかな藤色に変貌していくさまを、この絵を眺めながら追体験することができるかもしれない。まるで小さな蝶の群れがびっしりと羽を休めているようにも見えて、上品ななかにも華やかさがただよう。

 しかし葉っぱのほうはというと、実に装飾的に、いわば“花札的”に処理されている。葉の一枚一枚が決して重なることなく、まるでアンリ・ルソーが描いたジャングルの絵のように、人工的ですらある。葉の大きさの大小を問わず、中心には白い筋が一本通っている。その規則性が、藤の花の密集した表現にバリエーションを加えている。

 異なったリズムがからまり合うと、複雑な表情が生まれる。いさぎよく真っ直ぐに垂れ下がる藤の房と、Sの字を描いて湾曲しながらのびる蔓の表現も、同じ効果をもたらしていることはいうまでもない。

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 鈴木其一は、江戸琳派を代表する絵師のひとりだ。彼の娘は、大規模な展覧会が開かれて話題になっている河鍋暁斎のもとに嫁いだ。つまり其一は暁斎の義父にあたるわけである。

 ぼくは特に其一の花鳥画が大好きだ。植物の特徴を素早くとらえて、見事に一幅の絵に仕上げてみせる。その画風は、写実と装飾の折衷というか、その両方が混在しているように思う。描くべきは描いて、省くべきは省くことを知っていた、まことに中庸を得た画家であった。

 若冲のように、ある種マニアックなアクの強さとは無縁である。もちろん、暁斎とも全然似ていない。異端の画家ばかりでなく、このような堅実な画業にももっと注目してほしいものだ。

 鈴木其一は1858年、数えの63歳で世を去った。今年が没後150年にあたる。

(細見美術館蔵)

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