てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.14

2008年05月06日 | 五十点美術館
梶原緋佐子『古着市』


 美人画、というジャンルがある。ひとりの女性を描いた絵は、たいていそこに分類される。しかしこの女性は、お世辞にも美人とはいえないだろう。おそらくそんなに若くもなさそうだ。

 その表情もちょっとおかしい。眼つきが何だか恨みがましく、軽い狂気をはらんでいるようにすら見える。眼の下には濃いくまがある。口はぽかんと開いたままで、顔全体が微妙にゆがんでいる。髪はほつれ毛だらけ、衿は乱れ、見ていてかわいそうになるほどだ。座り方もだらしなく、組んだ足の指が裾からのぞいている。

 若いころの梶原緋佐子(ひさこ)は、社会の底辺で苦しみながら生きる女性をリアルに描いた。貧しい着物に身を包み、働きづめに働いて、疲れ切って放心状態になっている中年の女。彼女の肩の上には、重い現実がずしりとのしかかっているにちがいない。

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 華やかで洒脱な美人画が多く描かれた大正時代にあって、梶原の仕事は異色であった。竹久夢二に代表されるようなモダンで線の細い女性像がもてはやされた時代に、梶原は人生のどん底であえいでいるような女の姿を描きとめようとした。

 色づかいは暗く、構図は雑然としている。『古着市』という題名だが、古着はほとんど売れなかったのだろう。花の模様を染め抜いた綺麗な着物を手にしたまま、彼女はもう何もかもいやになったという顔つきで、何かを横目で見ている。

 その目線の先には、粋な着物を着こなした美しい女が媚態を振りまきながら歩いているのかもしれない。あるいは、古着がよく売れてほくほく顔の商売人が金勘定をしているのかもしれない。しかし本当は、彼女の眼には何も見えていなくて、ただ自分の苦難にみちた行く末をぼんやり思い描いているだけだという気もする。彼女の濁った眼には、何も映っていないのではないかという気もする。

 格差社会という言葉が、最近よく聞かれるようになった。ぼく自身、やはり社会の底辺近くにいる人間のひとりとして、さまざまな場面で格差を実感することは少なくない。働いて働いて、何を考えることもできなくなるほど疲れてしまうこともある(それがたび重なったせいか、入院するはめにもなった)。しかしそうまでして働かないと食っていけないのだから、やむを得ない。

 でも、格差社会は今にはじまったことではないのだ。『古着市』に描かれた女性の姿に、ぼくは一も二もなく共感してしまう。そしてそれを真っ正面から画題に取り上げた梶原緋佐子の眼のつけどころに、他の画家とはちがう非凡なものを感ずるのである。

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 昭和に入ると、梶原緋佐子の絵は一変した。プロレタリア絵画とでも呼びたくなるような従来の画題を捨て、正統的な美人画を描くようになった。絵のなかには働き疲れた女ではなく、美しい舞妓などがひんぱんに登場しはじめるのである。

 菊池契月に師事した梶原緋佐子は、もともと美人画を描く素養をじゅうぶんにもっていたことは疑いない。だから彼女の描く美人画も、かなり完成度の高いものだ。しかし美人画家というのはたくさんいる。絵はよく売れたかもしれないが、彼女の名前はやがて、他の多くの画家たちにまぎれてしまったように思う。

 緋佐子は昭和の終わる前年まで生き、91歳で亡くなった。今年が没後20年になる。また労働問題がかまびすしくなっている昨今、彼女のような絵を描く人はもういない。

(京都市美術館蔵)

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