川端龍子『金閣炎上』
京都の代表的な観光名所というと、金閣寺は必ず5本の指に入るだろう。だが、ぼくは京都に長いこと住んでいながら、金閣寺にはあまり行ったことがない。大阪に住んでいたときから数えても、18年間に3、4回ぐらいではないかと思う。
衣笠とか、きぬかけの道とかいわれるあの近辺にはしばしば出かけるが、ついでに金閣に立ち寄ろうという気にはなかなかなれない。ぼくが寺院を訪れる際にかすかに期待する、煩悩まみれの日常をつかの間でも忘れて心の平安を得たいという願いを、あの金ピカに輝く豪奢なお堂は叶えてくれそうにもないからである(むしろ、煩悩をかきたてそうですらある)。
もちろん金閣寺の輝きが今もって色あせないのは、昭和25年に焼失したあと再建されたからだし、焼ける前の年ふりた金閣がどんな風情をただよわせていたのかは想像するしかないけれど・・・。
ひとりの学僧が金閣寺に放火した事件は人々に衝撃を与え、いくつかの文学作品を生み出した。なかでも三島由紀夫の『金閣寺』と、水上勉の『金閣炎上』は代表的なものだろう。三島版は金閣が再建された翌年の昭和31年、水上版はずっとのちの昭和54年に発表されている(水上は『五番町夕霧楼』でもこの事件をモチーフにしている)。
とりわけ三島の作品は日本近代文学の金字塔とされ、きわめて世評が高く、ぼくも福井にいた10代のなかばぐらいに読んでみたが、なかなかどうして簡単に理解できるものではなかった。小学生のころに一度金閣寺を訪れたことがあったのだが、子供だったぼくの眼にはただの金細工のようにしか見えず、ひとりの人間の身を滅ぼしかねない“美の象徴”とはとても思えなかったのである。その抜きがたい落差が、今でもぼくの足を遠ざけている一因なのかもしれない。
***
ところで三島の『金閣寺』のなかに、こんな一節がある。
《金閣は雨夜(あまよ)の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂(くきょうちょう)にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗(かつ)てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去っていた。》
放火する直前、学僧の溝口が眺めた最後の金閣の姿だ。見事な文章だが、意外なことに三島は炎上する金閣の描写を書いていない。火をつけたあと、溝口は左大文字山へ逃げ出すが、そこからの眺めは次のように語られている。
《ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。》
闇夜に燃えさかる金色の御堂という、美しさと荘厳さと背信性をあわせもったような多義的なイメージは、さしもの美文家の手にも負えなかったのかもしれない。小説家なら、まあそれもいい。しかし画家がこの出来事を描くとなったら、絶対に避けて通れないのが、燃える金閣そのものの描写であることはいうまでもない。
川端龍子(りゅうし)の『金閣炎上』は、その難題に正面から立ち向かった作品だといえるだろう。濃墨で塗りこめられた息づまるほどの闇のなかに、細く真っ直ぐな雨の軌跡が落ちる。そして紅蓮の炎が、今まさに“夜の結晶”のごとき建築物をのみこもうとしているのである。静かな鏡湖池にほむらが映り、三島がいみじくも書いたとおり、金の砂子が空に舞い散っている。
まるで、先に引いた『金閣寺』のふたつの文章を一体化させたような、見事な絵ではないか。ぼくはてっきり、三島の小説を読んだ川端龍子が想像力をふくらませて描いたのかもしれない、などと思っていた。だが、それは正しくなかった。
三島の『金閣寺』が、放火から6年後に発表されたことは前にふれたが、川端龍子の『金閣炎上』は、事件のあったその年に描かれたものだったのだ。“金閣燃える”という驚くべきニュースが、いかにすばやく日本中を駆け巡ったかの傍証となるような作品である。ひょっとしたら、三島由紀夫のほうがこの絵を参考にした可能性だって、全然ないとはいいきれないのではないか?
***
ところが、川端龍子はひとつだけ、事実と異なるものを描き込んでいる。屋根のいただきで羽を広げる、鳳凰のシルエットがそれだ。といっても周知のとおり、復元された金閣の屋根にも鳳凰がいるし、焼け落ちる前にもそこにいたであろう。いったい何がちがうというのか。
数年前、たまたま福井に帰省したときに、デパートで「五木寛之の百寺巡礼」という番組にまつわる展覧会を観た。そこに思いがけず、焼けた金閣の屋根にあったという鳳凰が展示されていたのである。黒焦げの残骸かと思ったらそうではなく、意外と美しい姿を保っていた(ただし金色ではなかったように記憶する)。あとで調べてみると、金閣が燃えたときには鳳凰を屋根から取り外していたため、運よく火災を免れたのだという。
川端龍子が、はたしてこの事実を知っていたかどうか。いや、たとえ知っていたとしても、炎上する金閣の屋根の上には、やはり鳳凰が描かれなければならないだろう。彼もまた、炎に包まれた金閣の姿に、ある完璧な美を探り当てようとしていたにちがいないのだ。これは報道写真ではなく、絵画なのだから。
(東京国立近代美術館蔵)
参考図書:
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)
つづく
京都の代表的な観光名所というと、金閣寺は必ず5本の指に入るだろう。だが、ぼくは京都に長いこと住んでいながら、金閣寺にはあまり行ったことがない。大阪に住んでいたときから数えても、18年間に3、4回ぐらいではないかと思う。
衣笠とか、きぬかけの道とかいわれるあの近辺にはしばしば出かけるが、ついでに金閣に立ち寄ろうという気にはなかなかなれない。ぼくが寺院を訪れる際にかすかに期待する、煩悩まみれの日常をつかの間でも忘れて心の平安を得たいという願いを、あの金ピカに輝く豪奢なお堂は叶えてくれそうにもないからである(むしろ、煩悩をかきたてそうですらある)。
もちろん金閣寺の輝きが今もって色あせないのは、昭和25年に焼失したあと再建されたからだし、焼ける前の年ふりた金閣がどんな風情をただよわせていたのかは想像するしかないけれど・・・。
ひとりの学僧が金閣寺に放火した事件は人々に衝撃を与え、いくつかの文学作品を生み出した。なかでも三島由紀夫の『金閣寺』と、水上勉の『金閣炎上』は代表的なものだろう。三島版は金閣が再建された翌年の昭和31年、水上版はずっとのちの昭和54年に発表されている(水上は『五番町夕霧楼』でもこの事件をモチーフにしている)。
とりわけ三島の作品は日本近代文学の金字塔とされ、きわめて世評が高く、ぼくも福井にいた10代のなかばぐらいに読んでみたが、なかなかどうして簡単に理解できるものではなかった。小学生のころに一度金閣寺を訪れたことがあったのだが、子供だったぼくの眼にはただの金細工のようにしか見えず、ひとりの人間の身を滅ぼしかねない“美の象徴”とはとても思えなかったのである。その抜きがたい落差が、今でもぼくの足を遠ざけている一因なのかもしれない。
***
ところで三島の『金閣寺』のなかに、こんな一節がある。
《金閣は雨夜(あまよ)の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂(くきょうちょう)にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗(かつ)てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去っていた。》
放火する直前、学僧の溝口が眺めた最後の金閣の姿だ。見事な文章だが、意外なことに三島は炎上する金閣の描写を書いていない。火をつけたあと、溝口は左大文字山へ逃げ出すが、そこからの眺めは次のように語られている。
《ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。》
闇夜に燃えさかる金色の御堂という、美しさと荘厳さと背信性をあわせもったような多義的なイメージは、さしもの美文家の手にも負えなかったのかもしれない。小説家なら、まあそれもいい。しかし画家がこの出来事を描くとなったら、絶対に避けて通れないのが、燃える金閣そのものの描写であることはいうまでもない。
川端龍子(りゅうし)の『金閣炎上』は、その難題に正面から立ち向かった作品だといえるだろう。濃墨で塗りこめられた息づまるほどの闇のなかに、細く真っ直ぐな雨の軌跡が落ちる。そして紅蓮の炎が、今まさに“夜の結晶”のごとき建築物をのみこもうとしているのである。静かな鏡湖池にほむらが映り、三島がいみじくも書いたとおり、金の砂子が空に舞い散っている。
まるで、先に引いた『金閣寺』のふたつの文章を一体化させたような、見事な絵ではないか。ぼくはてっきり、三島の小説を読んだ川端龍子が想像力をふくらませて描いたのかもしれない、などと思っていた。だが、それは正しくなかった。
三島の『金閣寺』が、放火から6年後に発表されたことは前にふれたが、川端龍子の『金閣炎上』は、事件のあったその年に描かれたものだったのだ。“金閣燃える”という驚くべきニュースが、いかにすばやく日本中を駆け巡ったかの傍証となるような作品である。ひょっとしたら、三島由紀夫のほうがこの絵を参考にした可能性だって、全然ないとはいいきれないのではないか?
***
ところが、川端龍子はひとつだけ、事実と異なるものを描き込んでいる。屋根のいただきで羽を広げる、鳳凰のシルエットがそれだ。といっても周知のとおり、復元された金閣の屋根にも鳳凰がいるし、焼け落ちる前にもそこにいたであろう。いったい何がちがうというのか。
数年前、たまたま福井に帰省したときに、デパートで「五木寛之の百寺巡礼」という番組にまつわる展覧会を観た。そこに思いがけず、焼けた金閣の屋根にあったという鳳凰が展示されていたのである。黒焦げの残骸かと思ったらそうではなく、意外と美しい姿を保っていた(ただし金色ではなかったように記憶する)。あとで調べてみると、金閣が燃えたときには鳳凰を屋根から取り外していたため、運よく火災を免れたのだという。
川端龍子が、はたしてこの事実を知っていたかどうか。いや、たとえ知っていたとしても、炎上する金閣の屋根の上には、やはり鳳凰が描かれなければならないだろう。彼もまた、炎に包まれた金閣の姿に、ある完璧な美を探り当てようとしていたにちがいないのだ。これは報道写真ではなく、絵画なのだから。
(東京国立近代美術館蔵)
参考図書:
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)
つづく