てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.18

2008年06月02日 | 五十点美術館
リキテンスタイン『日本風の橋のある睡蓮』


 日ごろから時間の許すかぎり、さまざまな分野の美術を貪欲に鑑賞したいと願っている。できるだけ先入観をもたずに、作品ひとつひとつと向き合いたいと思っている。なかにはどうしても肌に合わないものがないとはいいきれないが、それでも辛抱強く見つめていると、ちょっとぐらいは美点を見出すことができるような気がするのである。

 だが、ここではっきりいっておこう。ぼくは、ポップアートは大嫌いである。その延長線上にある村上隆も、大嫌いである。村上が一部の熱狂的な愛好家に支持されるだけでなく、現代日本を代表するアーティストという認知のされ方をしていることがぼくには理解できないし、日本のためにも好ましいこととは思えない。先日も彼のフィギュア作品が16億円で落札されたというニュースが流れたが、画像を見てみると実にオゲレツきわまりない、悪い冗談のようなしろものである。拒否反応を示す人も決して少なくないはずだ。

 かと思うと、たたみかけるようにして、今度はアンディ・ウォーホルの描いた毛沢東の肖像画が130億円で売却されるというニュースが飛び込んできた。今、「描いた」と書いたがそれは正確ではなく、ありていにいえば毛沢東の写真を転写して彩色しただけである。日本の美術館にもウォーホルによるマリリン・モンローの肖像画が数多く所蔵されているが、あれと同工異曲で、その気になればそっくり同じ作品を他人が作ることも可能だろう。何に対して130億ものカネを払おうというのか、購入者の意見を聞いてみたいものだ。

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 だが、そんなぼくにも心をうたれたポップアート作品がなくはない。ロイ・リキテンスタインはコミックのワンシーン、なかでもとりわけ俗っぽいひとコマを印刷のドットが見えるまで拡大して描いた絵画で知られている。その着想はオタクアニメを立体化したような村上隆の仕事のはるかな祖先ともいえるものだが、それだけではなかった。『日本風の橋のある睡蓮』をはじめて観たとき、ぼくはその意外性に驚かされるとともに、やはりそこにはリキテンスタインならではの個性が横溢していると感じられたのである。

 描かれた場所ははっきりしないが、やはりジヴェルニーにあるモネの庭ではなかろうか。いや、ポップアートの画家たちがマスメディアを通して限りなく増幅されるイメージにインスピレーションの源泉を求めたことを考えれば、リキテンスタインが実際にジヴェルニーを訪れたかどうかは心もとないし、またどうでもよい。モネの絵画によって、あるいは書物や写真などによって、ジヴェルニーに行ったこともないのに皆が共有しているジヴェルニーの印象というのがある。それでじゅうぶんだろう。

 そしてそのありふれたイメージを表現するのに、彼はみずから考案した独自のアイディアで勝負する。お馴染みのドットや斜線を均等に並べた印刷技法の応用によって、睡蓮の池を自分のものとして表現したのだ。おもしろいのは、絵のなかに鏡を取り込んでいる点である。水面が周囲のものを写すのと同様に、美術館にいる人々が鏡に写り、作品に無限の動きを与える。モネの時代には思いも及ばなかったこの発想は、従来の絵画の枠にとらわれないポップアートの作家ならではのものだろう。

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 リキテンスタインは1997年に世を去ったが、マンガと絵画との融合、あるいはボーダーレス化は、21世紀の現在に至ってますます盛んにおこなわれている。先頭を突っ走っているのは、先ほども書いたように日本のアーティストだ。

 彼らは過去の美術作品からではなく、サブカルチャー的な文化の動向にいち早く反応し、作品を作り上げる。時代の波に乗ることができれば、しめたものである。追い風はたしかに吹いている。だが、彼らの仕事が数十年後にも残っているかどうか、それは誰にもわからない。

 リキテンスタインは、同時代のアメリカ文化との横のつながりだけではなく、過去の偉大なる画家たちとの縦のつながりも忘れなかった。モネの連作『ルーアン大聖堂』を翻案した作品も残している。時代に踊らされるのがアーティストの仕事ではないことを、彼は知っていたかのようである。

(国立国際美術館蔵)

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