
山田朝彦(ともひこ)という彫刻家のことは、3年前の「日展」の記事でも取り上げた(「日展」の“点と線”(1))。このときは伸びやかな女性の立像に胸のすくものを覚え、若く清楚な息吹を感じることができたのだが、座像である今回の『悠悠』にも大変に心惹かれた。
ただ今回は前と比べて、やや思わせぶりというか、女性の色香をかすかに匂わせるポーズになっている。ボタンをはずしたシャツや、ふくらはぎがあらわになった足の角度などがそうだ。ただ、それがすなわちエロスのような退廃的な表現につながるわけではなく、まるで新芽のふくらみが硬い殻を破って顔をのぞかせているのを見たときのように、実に健やかなメッセージを伝えてくれるのである。

そこでただちに思い出したのは、佐藤忠良(ちゅうりょう)のことであった。今年98歳を迎えるこの彫刻家は、舟越保武と並んでぼくに現代日本の彫刻の魅力を教えてくれた恩人だが、今でも「新制作展」に毎年出品しているほど創作意欲の衰えをみせない巨匠である。そんな佐藤の代表作に、若い女が上半身裸になって座り、つばの広い帽子で顔を隠した有名なものがある。
両足を開いてつま先を立てた危ういバランス感覚とシンメトリックな美しさが共存しているところは、興福寺の『阿修羅像』にも比肩し得るものではないかと思うのだが、たとえば実際に写真に撮るとあられもないポーズに見えるにちがいないこの姿が、彫刻という物質に移し変えられることで不思議な品格を獲得している。山田朝彦も、こういう彫刻の魔法を熟知しているのではないかと思われる。

一方で山田は「日展ニュース」という冊子のなかで、ウィーンで出会った『ヴィレンドルフのヴィーナス』に大きな感銘を受けたことを書き、彫刻とは存在することだけではなく、感じるものがいかに込められているかが大切だと感じた、と述懐している。この太ったヴィーナスと山田の優美な人物像とはまるで正反対だが、かぐわしいそよ風の愛撫を全身で受け止めているような『悠悠』の女性は、まるで古代の女神が新しいモードをまとって顕現した姿のようにも見える。止まっているはずの物体から自然の息吹を豊かに感じ取ることができるのは、彫刻を観るときの大きな喜びであろう。
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片山康之はまだ若い彫刻家だと思うが、昨年度の「日展」で『すべての夜に』が特選となって注目を浴びた。ただ特選に選ばれたというだけなら何ということはないが、その彫刻がこれまでの同展ではついぞ見かけない奇怪な作品だったために強烈な印象が残った。足を止めてじっと眺める人も多く、監視員に向かって「この素材は何ですか」と問いかける人もいたように記憶している。
今回出品していた『夜ノ化身』は前回のものとよく似ているが、やはり異彩を放っていた。山田朝彦の彫刻が昼の光を感じさせる健全な作品だとすれば、片山のものは題名のとおり夜の片隅に追いやられた孤独な、やや病的な存在をあらわしている。今はやりの言葉を使えば、いわゆる“引きこもり”を連想させるのである。
木でできているようだが単なる木彫ではなく、別々の部材を組み合わせた一種の寄木造といえるだろう(仏像などにはよくみられるが現代彫刻では珍しい)。何も彫られていない枝をそのまま土台に用いているところも画期的だ(なお、前作では金属のボルトも使われていた)。スキンヘッドの頭部といい、胎児のように体を丸めたまま宙に浮かぶポーズといい、他の「日展」の彫刻群とはおよそかけ離れた、屈折した造形だといわねばならない。健康的な肉付きや均整のとれたプロポーションを見せつけるような作品が多いなかで、胴体のほとんどは繭のような物体に隠れていて、頭と手足だけがわずかに外気に触れている。一見して“痛々しさ”を感じさせるようでもある。
このような彫刻が高い評価を受け、しかもわれわれの心に残るのは、閉塞した時代の一断面を鮮やかに切り取っているからにちがいあるまい。アポロン的な人体像では表現し得ない影の部分、まさしく『夜ノ化身』の姿を、これほど明瞭に造形化した作品はないかもしれない。
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