てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

千住博の夜の滝

2008年04月20日 | 美術随想

『NIGHT FALLS』

 喧騒に湧く百貨店の人込みをくぐり抜け、入口へ一歩足を踏み入れると、たちまち暗黒の世界にいざなわれる。ふと気がつくと、静まりかえった闇のなかから妖しく光る滝が浮かび上がる。足を進めると、四方からいくつもの滝が流れ落ちている大きな空間に出た。先日京都でおこなわれた日本画家、千住博の個展の模様である。

 (なお実際には「博」の右上の点がないのが正しい表記だが、パソコンでは表示できないので「博」で通させていただく。)

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 千住博といえば、この人ほど日本画を世界に向けて発信しようとしている人は少ないかもしれない。

 画材が入手しにくいはずのニューヨークに拠点を置き、ヴェネツィア・ビエンナーレで受賞したりする一方で、日本国内の寺院の襖絵を手がけるなど、その活躍は幅広い。テレビにもしばしば出演し、作曲家の千住明・ヴァイオリニストの千住真理子の兄としても知られ、この3人の芸術家を育て上げた母親による「千住家の教育白書」も話題となっている。

 昨年には京都造形芸術大学の学長に就任し、彼みずからが変に大股開きをした不自然なかっこうで「うぇるかむ」などとつぶやく珍妙なポスターがあちこちに貼り出された。学長みずからが大々的に登場するポスターというのも珍しい。千住の知名度の高さを示すエピソードだと思う(ちなみに副学長は、千住よりもさらに有名といえるヒットメーカーの秋元康だ。何とも型破りな大学である)。

 国内の美術雑誌でも、千住の絵はしばしば表紙を飾ってきた。そしてその多くは、滝の絵である。彼は本当に長いこと滝の絵を描きつづけており、昨年刊行された画集も「滝」と「滝以外」の2冊にわけられていたほどだ。かつてビートたけしの番組で実演してみせたところによると、その描き方というのはかなり変わっていて、壁に立てかけた紙の上のほうから胡粉を溶いた水を流すのである。細かなしぶきなどは、霧吹きを使って吹きかけたりしている。日本画とは床に敷いた紙に筆で描くもの、という固定観念を、千住の技法はいとも軽々と飛び越えてみせる。

 しかしそれを見たとき、「これでは“描いた”といえないのではないだろうか」というかすかな疑問が頭をよぎったこともたしかであった。絵の具をしたたらせるというのは、いわば偶然性に委ねたやり方で、日本画を学んだ人でなくてもたやすくできそうに思えたのだ。そしてこのような、いわばお手軽かつ目新しい技法というのは、現代美術によくある常軌を逸した描き方、いいかえれば“奇をてらった”手法と紙一重のような気もした。現代美術ばかりを集めた国立国際美術館に彼の『ウォーターフォール』が所蔵されているのも、そう考えていけば納得できたのである。


『四季滝図・春』

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 しかし千住博自身が書いた記述を読むと、学生時代はデッサンの鬼であったらしいし、日本画の基礎をきっちりと踏まえてきたことがわかる。では、千住が絵筆を使わずに絵の具を流すという、はたからは“暴挙”とも見える行動に出たのはなぜなのか。それは、「表現と技法の一致」を求めたからだと彼はいう。

 《それらは滝の絵であるとともに、まさに絵の具をたらした実際の滝なのです。豪快な水のしぶきや荒々しい筆致、そういう画面上に起こった現実が作品を構造的に支えていたのです。(略)その中には大きな時間の流れをも内包している。むき出しのエネルギーのようなものをただそこに示したかったのです。》(「千住博の美術の授業 絵を描く悦び」光文社新書)

 これまでの画家たちは、流れ落ちる滝の外見を“描写”してきた。しかし千住は、実際に激しく流れ落ちる滝の迫力に触れ、これは絵筆でこまごまと描いても伝わらない、滝を絵画に移し変えるというクッションをおかず、紙のうえに本物の滝を出現させてしまおうと考えたのだ。

 その結果、これまで誰も表現し得なかった滝の絵があらわれることになった。その後、千住は同じ技法によりながらもさまざまにバリエーションをくわえ、鮮やかな原色の絵の具を流した『フォーリング・カラー』、さらには蛍光塗料を流してブラックライトで光らせた『NIGHT FALLS』へと変化を遂げてきた。ぼくが観た展覧会は、日本に先駆けてニューヨークで発表された、いわば千住の滝が“流れ落ちた地点”であったのだ。

 ここまでくると、もはや「日本画」などというカテゴリーにあまり意味があるとは思えない。千住博は、新たな滝の表現を模索しながら、これまで誰も向かわなかったところへ行こうとしている。それは絵画の冒険といいかえてもいいだろう。


『フォーリング・カラー』

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 滝の絵というと、ぼくには忘れがたい一枚がある。かなり以前、「イメージの系譜 ― 江戸絵画を横断する試み(10)」でも取り上げた円山応挙の『大瀑布図』である(画像はリンク先参照)。

 このべらぼうに大きな水墨画は、いってみれば現実の滝の代わりに描かれたものだ。応挙は迫真の写実をもってして、滝に迫ろうとした。それは日本画家としては(当時の呼び方では「絵師」というべきだろうが)非常にまっとうなやり方だったし、愚直なまでの正攻法であったといえる。応挙は絵筆をもって実際の滝を可能なかぎり再現し、それは寺院の庭に吊るされたという。

 しかし千住博の『NIGHT FALLS』は、会場を黒一色で塗り込め、まるで映画館のように外部の光を厳重に遮断したところで鑑賞される。閉ざされた仮想空間のなかでのみ、千住の滝は光を放ち、音を立てて流れ落ちはじめる。これでは日本画の垣根を越える大胆さとともに、一種の閉鎖性をも抱え込む結果となっているのではなかろうか。警備員が持ち上げてくれる黒い紗幕をくぐり、現実の世界へと引き戻されながら、ぼくはそんなことを考えていた。

(了)


DATA:
 「千住博展 ハルカナルアオイヒカリ」
 2008年3月26日~4月7日
 京都高島屋グランドホール

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