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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「日展」ところどころ(1)

2010年01月17日 | 美術随想

京都市美術館の破風

 1月3日、2010年最初の展覧会として「第41回 日展」を京都市美術館で観た。この展覧会には毎年欠かさず足を運んでいるが、三が日のうちに出かけたのはおそらくはじめてだろうと思う。

 今年は不景気の影響から正月を“巣ごもり”で過ごす人が多いといわれていたが、この日ぼくはとりわけ早起きをして、9時の開館直後に中に入った。年が明けてすぐの清新な空気を、まだ人のまばらな美術館で呼吸したかった。玄関前には村井康彦館長の新年のあいさつが掲示されている。列品解説のときに、紹介された作家の方々がマイクを持って「明けましておめでとうございます」といってくださったのも新鮮でうれしい。ああ、正月を美術館で迎えているんだな、と実感したし、今年も充実した美術鑑賞ができますように、と願いたい気持ちにもなった。

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 「日展」は、いつも彫刻部門から観るのがぼくの順路だ。美術館の中央に位置する吹き抜けの大きなフロア、いわゆる大陳列室に入ると、人体像が台の上に整然と並んでいるのが眼に入る。「京展」の彫刻もこの場所で展示されているが、そのときはおもちゃ箱をひっくり返したように雑多なオブジェが床の上に散らばり、歩き方に気をつけないと作品と接触してしまいそうになったりする。しかし行儀よく列をなして陳列されている「日展」では、そんな心配もない。

 「日展」は保守的に過ぎると、しばしば批判されてきた。もともとは官展であるし、その厳密な階級性のシステムがそういわせるのだろうが、ここの常連は他の公募団体にも所属している人がほとんどで、「日展」だけにあぐらをかいているわけではもちろんない。しかし彫刻部門を一瞥すると、たしかに保守的だなあと思う。作品のほぼすべてが写実的な人体彫刻で、およそ等身大である。よっぽど眼の肥えた人でなければ、その優劣は容易に見分けがたい。

 あと、これは主に階級が高いほうの作者にいえることだが、毎年毎年似たような作品を出す人が多すぎるように思う(ただし、これは「日展」のみに限った現象ではない)。ぼくは中村晋也という彫刻家が好きで、かつて聖書に基づく作品を観て大変に心を動かされたことがあったのだが、最近は釈迦の弟子たちの像を継続して作っていて、奈良の薬師寺にも彼の十大弟子像が収蔵されている(ぼくは一昨年の正月にそれを観た。そのときのことは越年顛末記(3)に書いている)。「日展」でもここ数年、痩せさらばえた僧形の男の像を出しつづけているが、今年もやはりそうだった。出来栄えは見事で腕はたしかだが、あまり同じような作品ばかり見せられると、この作家にはイマジネーションが枯渇してしまったのだろうかと疑いたくなるのも仕方があるまい。

中村晋也『迦旃延』

 したがって「日展」で感銘を受けるのは、これまであまり注目してこなかった作者が飛躍的に優れた作品を出しているのに出くわしたときが多い。あるいは、未知なる作者との出会いも大きな楽しみである。特選を取ったとか、内閣総理大臣賞をもらったとかいうのはあまり関係がないし、会員かそうでないかもどっちでもいい。自分のなかで今年のベスト1に輝く作品が見つけられればじゅうぶんだし、それが楽しみで「日展」にかようのである。いいかえれば、権威や肩書きに左右されない審美眼の有無が試される場なのだ。

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参考画像:ロダン『青銅時代』(東京富士美術館蔵)

 人体彫刻というとまずロダンを思い浮かべるが、「日展」でロダンに匹敵するような作品を探すのは難しい。ロダンには『青銅時代』のようなシンプルなものもなくはないが、もっと複雑に人間が絡まりあった作品がかなり多い。しかしここでは、およそ9割が単独の人物の立像ないしは座像である(これは京都展での場合で、他の会場ではどうか知らないが)。

松田貞雄『たゆとう』

 松田貞雄の『たゆとう』は、もっとも「日展」で多くみられる、いわば典型的なスタイルの作品だ。奇を衒ったものは何もなく、ひたすらに女性の裸体の美しさを素朴に追い求めているように思える。故意に質感をざらつかせたりとか、ところどころに描きなぐったような色をつけてみるとか、さまざまな技巧を弄する作家も多いのだが、ここからはそんな夾雑物は排除されている。

 ただ、不自然でない立ち姿を表現するには、人物にどういうポーズをとらせるかが極めて重要だろう。棒立ちになっていればいいというものではない。ロダンの『青銅時代』は、思わずあくびをしてしまったモデルの姿がヒントになっているというが、『たゆとう』もごくごく自然な、のびやかな肉体の呼吸が伝わってくるような姿である。

 つけくわえると、ぼくが他の作品に比べてとりわけ強く惹かれたのは、女性の顔の魅力的な表現だ。ブロンズのような単色の素材で、人物の顔の機微をとらえるのは至難のわざではないかと思うが、『たゆとう』の女性には一種の母性というか、人々を見守るあたたかい眼差しがある。遠く、あらぬ方を見やっている作品が多いなかで、観る者と視線を交わすことができるこの彫刻は、まるでモデルと心の会話を楽しむことができるような親しさを感じさせるのである。

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