てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

有名と無名のあいだ ― マルク・リブーの写真を観る ― (2)

2012年04月23日 | 美術随想

『ウィンストン・チャーチル』(1954年)

 マルク・リブーは著名人のポートレートも手がけた。『ウィンストン・チャーチル』は、80歳を迎える英国首相の姿をとらえている。彼が国政の第一線から退くのは、この翌年のことだ。

 テレビでよく見かける現在のイギリスの首相は、まだ非常に若い(正確にいえば、ぼくより5歳年上というだけだ)。日本の総理はもう少し年を取ってはいるが、顔ぶれがしょっちゅう入れ替わり、そのたびに人格の底の浅さを露呈する結果になっている。今、このチャーチルに匹敵し得るような威厳を持ち合わせた政治家は、世界中にひとりもいないのではあるまいか。

 ぼくはもちろん、生きて動くチャーチルの姿を見たことはない。だが、おそらく座っているものと思われるこの写真のチャーチルは、このまま二度と立ち上がることができなくても、いや仮にひとことも発しなくなっても、国のトップとしてのメンツを失うことはなかろうと思えるほどの存在感を発揮している。はやりのいい方でいえば、“オーラ”がみなぎっているのである。

 だが、単に偉そうなだけではない。彼の肉体はあまりにも肥満しすぎ、首は上半身にめり込んでいる。眉間には厳しいしわを寄せているが、滑稽な丸眼鏡をかけた顔は、不機嫌な赤子のように無邪気そうにも見える。

 この写真を撮影したとき、リブーはまだ30歳そこそこだった。そんな若造写真家に向かって、チャーチルはわざと渋面を作ってみせたのか、それとも「こいつ、何者だ?」と訝っているだけなのか、どちらともつかない。本心がそう簡単に透けて見えないところが、政治家たる所以なのかもしれないが・・・。

                    ***


『パブロ・ピカソ』(1957年)

 チャーチルに比べて、ピカソのフットワークの軽さはどうだろう。この疲れを知らぬ美術界の超人は、やっと76歳になったところである。ピカソは写真家にとって、よき被写体だったようだ。「よう!」といった感じで、親しげに声をかけてくれる(ダリの演出された写真と比べると、雲泥の差がある)。

 この場所は、どこだろう。避暑地のようでもあるが、人前でさえ上半身裸になることの多いピカソのわりには、やや厚着をしているようにも見える。背後には「酔いどれ船(LE BATEAU IVRE)」という名前の飲食店があるから、ひょっとしたら港町かもしれない。

 だが注目すべきはピカソその人ではなく、彼が連れているダックスフントのほうだ、といったらピカソは怒るだろうか。まるで灼熱の太陽が地面に映し出した影絵のように真っ黒なその犬は、愛犬の「ランプ」である。ピカソはランプの姿を焼物に描いたり、たくさんの油絵に登場させたりした。デイヴィッド・ダグラス・ダンカンという名のアメリカ人写真家は、ちょうど同じころにピカソとランプの写真を何枚も撮っている。


参考画像:デイヴィッド・ダグラス・ダンカン『ピカソとランプ』(1957年)

 ピカソは生涯にわたって、女性たちからインスピレーションを受けつづけたことはよく知られている。ランプはオスかメスか知らないが、この犬もピカソにとっては大切なミューズだったのだ。

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