戦前は、己斐国民学校。 昭和二十年八月六日この校庭は、数千人の被爆者で溢れた。 氏名が判明した者約千人。 内遺骨が引き取られた者五百人。 残り五百人の氏名の判別が出来たが、引き取り手の無い遺骨は「善法寺」に長く保存された。
身元不明者二千二百人は、このグランドで荼毘に付され、昭和二十六年発掘遺骨収集がなされるまで、子供達の足の下で眠っていた。
梅雨になり雨が続くと、時々遺骨が顔をのぞかせた。 この木造校舎は、被爆者を収容した校舎である。 山陰に有ったため倒壊を免れ被爆者を収容し、その死を見取った。
左手の白い建物は、終戦の年に「連合国」から送られた図書館である。 今は無い。 忌まわしい過去を消すが如くこの年から、この木造校舎は、市内でいち早く鉄筋の校舎に建替えられた。 この校庭の周りには百本の桜があり、入学式には咲き誇っていたが、ベビーブームの時代、切り払われ仮設の校舎が建てられた。
我が母校では、八月六日生徒全員が参加して慰霊祭が行われていた。それは今日まで続けられているようである。
追伸
昨日の「被爆者健康診断」の結果は、肝臓機能の低下が著しくなってきたようである。 小学生時代からの症状で、被爆による肝細胞再生能力不足が原因だそうである。 少しづつ原爆症も忍び寄ってきているようである。
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