今年の自然現象に少し異変を感じている。
例年早くから姿をみせる蝶が未だ飛来しない。それにツバメも、我が家の前の電線に姿をみせない。
蘭の花も、昨年は八本咲いたが今年は、一本だけである。
約十日前、深夜に一通のメールを頂いた。Yさんという女性からの相談のメールであった。お父様の中皮腫の治療法方についての相談であったが、お父様の経歴を伺って昭和四十年代前半、共に青年活動をしていたM氏のことを思い出した。というのも、YさんはM氏の父親が経営されていたU造船所に勤務された事が、中皮腫発症の原因と特定され、労災の認定を受けられていたからである。M氏の父親は、広島の財閥の1人で、大手ゼネコンG建設の創設者でもあったが、私がM氏と出会った頃には、すでに他界されていた。しかし、その邸宅は原爆の惨禍を免れ、戦後広島を訪問された天皇陛下のお宿として使用されたことでも知られていた。M氏は当時広島市職員として、いたってのんびりと仕事をしていたが、私と出会った事が彼の災いとなったように思う。私の性格はいたって単純で、人からは「壊れた蒸気機関車」言われていた。一度動きは始めると、回りの人間を薙ぎ倒してでも、目的を貫通してしまう所があって、少なからず犠牲者を生む事があった。相手の都合などお構い無しに突き進むのである。
特に相手が行政であると、お構い無しに突き進む。今では少し、行政の担当者の立場も考慮しながら、話し合いの中で問題解決を心がけているが、当時はその様なことなどお構いなく、相手が市長であろうが、教育長であろうが直談判に押しかけていた。そんな私をM氏はたいそう気に掛けてくれて、色々忠告をしてくれていたが、昭和四十二年の正月に、当時広島市で活動していた青年活動家を自宅に招き、新年宴会を開いてくれた。いやそのときは、彼が私のために開いてくれた事など知る由も無く、ただ呼ばれたから行ったまでである。しかもかなり遅れて。平素温厚な彼が顔を見るなり胸倉をつかむと私を投げ飛ばしたのには驚いた。しかしその瞬間、彼の私に対する友情の深さを感じずにはいられなかった。彼としては、私のために集まってくれた他の人々の手前そうしなくてはすまなかったのである。それからの彼と私の付き合いは兄弟以上のものとなり、彼が鬼籍となるまで続いたが、私はかれの早すぎる死は、私にも少しの責任があるように感じている。というのも、私との付き合いの仲で、彼の職場での部署や、地位が大きく影響されたからである。特に教育委員会に配属替えになり、歴代の公聴課の長としては始めての高卒でありしかも、その激務を三年間も勤めたのも、私の所為であるように思う。その激務で体を壊し、東京事務所長を少し務めたが、ついに帰らぬ人となった。
今彼が、生きていてくれたら「石綿被害者救済」の力に成ってくれたと思う。素晴らしき人材の早い死を今更ながら惜しまれて為らない。彼とコンビで成し遂げられた多くの事業を、今噛み締めながら、涙の中で思い出している。
今日一日は、彼の冥福を祈る日としようと思う。
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