藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

未だ蝶の姿を見ず。

2012-05-19 09:42:36 | 社会・経済

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今年の自然現象に少し異変を感じている。

年早くから姿をみせる蝶が未だ飛来しない。れにツバメも、我が家の前の電線に姿をみせない。

蘭の花も、年は八本咲いたが今年は、本だけである。

十日前、夜に一通のメールを頂いた。さんという女性からの相談のメールであった。父様の中皮腫の治療法方についての相談であったが、父様の経歴を伺って昭和四十年代前半、に青年活動をしていた氏のことを思い出した。いうのも、さんは氏の父親が経営されていた造船所に勤務された事が、皮腫発症の原因と特定され、災の認定を受けられていたからである。氏の父親は、島の財閥の人で、手ゼネコン建設の創設者でもあったが、氏と出会った頃には、でに他界されていた。かし、の邸宅は原爆の惨禍を免れ、後広島を訪問された天皇陛下のお宿として使用されたことでも知られていた。氏は当時広島市職員として、たってのんびりと仕事をしていたが、と出会った事が彼の災いとなったように思う。私の性格はいたって単純で、からは「れた蒸気機関車」われていた。度動きは始めると、りの人間を薙ぎ倒してでも、的を貫通してしまう所があって、なからず犠牲者を生む事があった。手の都合などお構い無しに突き進むのである。

に相手が行政であると、構い無しに突き進む。では少し、政の担当者の立場も考慮しながら、し合いの中で問題解決を心がけているが、時はその様なことなどお構いなく、手が市長であろうが、育長であろうが直談判に押しかけていた。んな私を氏はたいそう気に掛けてくれて、々忠告をしてくれていたが、和四十二年の正月に、時広島市で活動していた青年活動家を自宅に招き、新年宴会を開いてくれた。いやそのときは、が私のために開いてくれた事など知る由も無く、だ呼ばれたから行ったまでである。かもかなり遅れて。素温厚な彼が顔を見るなり胸倉をつかむと私を投げ飛ばしたのには驚いた。かしその瞬間の私に対する友情の深さを感じずにはいられなかった。彼としては、のために集まってくれた他の人々の手前そうしなくてはすまなかったのである。れからの彼と私の付き合いは兄弟以上のものとなり、が鬼籍となるまで続いたが、はかれの早すぎる死は、にも少しの責任があるように感じている。いうのも、との付き合いの仲で、の職場での部署や、位が大きく影響されたからである。に教育委員会に配属替えになり、代の公聴課の長としては始めての高卒でありしかも、その激務を三年間も勤めたのも、の所為であるように思う。の激務で体を壊し、京事務所長を少し務めたが、いに帰らぬ人となった。

彼が、きていてくれたら「綿被害者救済」のに成ってくれたと思う。素晴らしき人材の早い死を今更ながら惜しまれて為らない。とコンビで成し遂げられた多くの事業を今噛み締めながら、涙の中でい出している。

今日一日は彼の冥福を祈る日としよう思う。


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