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 藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

今夜の奥様が怖ろしい

2016-09-10 16:11:44 | 日記・エッセイ・コラム

 いよいよ「巨人、広島直接対決」である。 昨夜でさえも、深夜までカープ特番をご覧になっていた奥様、優勝が決まれば徹夜でのTV観戦になりそうである。

 前回優勝の時は、やっと四十台になったなばかりであったが、今回は・・・・・才であるから次回の優勝は見ることはなかろうかと思えてくる。 もちろん私もである。 

 それよりもいま私は、昭和36年頃の事を思い出そうと必死になっているのです。 昭和36年、大学病院に入院中の私は、病院前の本屋で一冊の本に出会った。 「日本残酷物語 現代篇1 引き裂かれた時代」である。 その本の最終章に、当時広島大学教授 今堀誠二先生がお書きになったであろう、「日本最大級の被差別」のことが包み隠さず記載されていた。 私はその「被差別」を、川向こうに見渡せる「己斐」という町に生まれ、小学校時代は、そのの子どもたちとおなじ学校に通ったのです。 なぜそうなったかは、この本の中には書かれていないのだが、大本営を置くような都市に「被差別」の存在がふさわしくないと、行政は考えたことは間違いないのです。 現にその「抹殺」のために、「軍都広島を水害から守る」を合言葉に「一大放水路」の建設にかかったのです。昭和初期のことです。 その計画水路は一番効率の良くない、場所である「被差別を抹消するコース」が取られたのです。 一番に行われたのが、小学校近辺からの移転工事で、学校がなくなれば多くの人間が移動すると考えたようです。 加えて昭和20年原爆によりこのの人々は二重の差別を受けることになりました。 そうした事が記録されたこの本の中に、「水俣病」についての記事があり、その記事の熱さに感動したのを今でも覚えています。 その作者が誰なのかは当時知りませんでしたが、記述者一覧の中に「石牟礼道子」の名前があったことだけは、記憶に残っていました。 昭和44年夏、「苦海浄土」石牟礼道子著を本屋の店頭で見つけたとき、即購入し一夜で読み、いままでの自分のいろいろな活動の原点を大きく変えることに成った事だけは、はっきりしています。

 例えば、「新生学園」という孤児院がありました。 毎週ボランティアに行っていましたが、泊り込みで行うことはありませんでした。 多くの女子ボランティアは、子供たちの生活空間の匂いだけで一日を過ごすことの苦痛を訴えていました。 それらは太陽に干すことのない「おねしょう」の乾ききっていない布団の匂いなのです。 「苦海浄土」を読んだ後、私は多くのボランティアとは袂を分かち、土曜日の夜から泊り込みの活動に変えたのです。 すると、夜寝るときの子供たちの寝顔が安らかになったのです。 その後進学の相談や、学習指導、まで多くの子どもたちが私の周りに集まってきてくれました。 そのとき私は、中学生の子どもたちに相談したのです。 「日曜日、晴れていたら、小学生の布団を皆で広島城の堀端で干そう」 始め子どもたちはいやいやでしたが、小さな子どもまで自分たちで頑張るようになりました。 

 当時の友人の二人がその姿を見て、この施設の子どもたちが、今まで食べたことの無い物を御馳走したいと言い出して、土曜日の一日、一人は商売物の牛肉を大量にもってやって来て、いま一人は自分の山で取ったマツタケをこれまた大量に持参して、園の子どもたちにすき焼きをご馳走してくれたのでした。

 大量の肉を提供してくれたのは、「日本残酷物語」に出てきた被差別出身の私の友人です。 彼は日本で名の知れたハム会社の御曹司です。彼は中学、高校の同級生で、私が入院中に差し入れてくれた本に感動したのを思い出して、何という本だったのか必死に思い出そうとしているのですが。 九州の山間の小さな町の物語であったことだけが頭の片隅に残っているのです。

 

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