「グレート・ギャツビー」宝塚月組公演
宝塚大劇場の千秋楽の配信を見ることができました。
コロナで初日が延期、やっと開幕できて1週間でまた中止になり、それでも最後の4日間公演することができた。
宝塚では三度目のギャツビーだが、初の大劇場での1本立て上演ということで、脚本・演出の小池修一郎先生が派手なレビュー場面を増やしたりして、大作に仕立て直したそうだ。
感想としては、ミュージカルとしてよくできてる!
そして、大作として仕立て直したせいもあり、小池作品のギャングものの名作「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」の親戚みたいな印象にはなっている。
ギャツビー(月城かなと)が求め続けるデイジー(海乃美月)の夫トムを演じている鳳月杏、この鳳月さんが「小池先生こそかなりロマンティストだよね。原作に寄せるというより、宝塚の男役を見せる方向に行ってる」と言っていて、見たらまさにそういう感じでありました。だから、月城ギャツビーは魅惑の美しさで、隙なくカッコいい。
原作の読後感は強烈なむなしさ、まったく救いのない報われなさで、そこが魅力だと思うが、その点はかなり薄まっているのが惜しいけど。
主演の月城さんは、「このお話は断じて単なるラブロマンスではないと思う」と言っていたから、徹頭徹尾メロドラマとして作り上げて「宝塚版としてはこれでいいと考えています」と言う演出家とは乖離が。おそらく最初は、擦り合わせが大変だったんじゃないかという気がする。
小池先生は、ラストシーンのギャツビーの葬儀に、デイジーを登場させていて、それは「あらまあ!」という驚きではある。どう考えても来ないでしょ。危険すぎる。新聞記者(この舞台にも登場してゴシップで活躍する)に嗅ぎつけられたら大変。真相がバレなくても、ギャツビーとつきあいがあったなどと書きたてられたらスキャンダルだ。原作ではもちろん来ない。
トムは、女房を轢き逃げされ、ピストルを持って逆上している亭主に向かって「あの車の持ち主はギャツビーだ」と教えておいて、妻子を連れて大急ぎでこの町を後にする。
30年前の初演のときに、宝塚のヒロインにふさわしいようにしないといけないという事情もあったようだが、むしろ葬儀に顔を出すことで、デイジーの印象が悪くなってる気がするんだけどね。
原作では、葬儀に駆けつけるのは、田舎の老父のほかにはたった一人、最初の乱痴気パーティーのときギャツビーの書斎に入り込んでいた男。読んでいてたいした場面に思わなかったのが、葬儀にやってきたのがこの男だけだったことで、あの書斎の場面は意味があったのか!と思った。立派な本が並んだ書棚の前で男は「厚紙で作った飾り物かと思ったら、全部本物の本だ!」と感心し、本を手に取って言うのだ「ページは切ってない」
つまり、ちゃんとした本が並べられているが、1ページも読まれていないということだ。
ギャツビーがオックスフォードを出ましたと言いたがることと思い合わせても、彼が求めたものは、単にデイジーという一人の女だけではなく、彼女が象徴する、高度な教育に容易に手が届く階層なのかもしれない。
宝塚版ではこの男のエピソードはまったく出てこない。
小池先生はギャツビーの人物像を掘り下げることよりも、大作ミュージカルとしての華やかなボリュームに力を注いだのだと思う。トムが出かけていくレビューの場面や、ギャツビーと対決するゴルフコンペの場面など大人数で楽しく盛り上がるし、高級もぐり酒場でギャツビーが歌うアウトローのナンバー、ギャングたちが煙草片手に踊る男役群舞、テンポよく見せ場があってストーリーが進んでいく。ロマンティスト小池先生も、作劇術はさすが。
主演の月城さんは、その小池先生が「よくぞタカラジェンヌになってくれた」と大絶賛の演技力を、繊細に、惜しみなく見せてくれますし、月組の皆さん、芝居がうまい。
大階段を使ってのフィナーレがついて、つらい役の人もみんなカッコよく踊って華麗に終わるのが宝塚のいいところ。
宝塚ミュージカルとして、いい舞台になっていたし、月城さんにもぴったりの役だった。
そして、ともかく、4日間とはいえ、この千秋楽まで公演できて、ほんとうによかった。
来月の東京公演の無事を祈ります!