先日の秋葉神社参道入り口の旧栗田家邸宅の立派さにほだされて、その周りを散策する。急峻な坂道の登山道を登らないで、その手前をチョットだけ覗いてみた。「栃川」にかかる赤い見事な「九里橋」は山頂への起点である。掛川と浜松から九里もあることからつけられた名前だ。
かつては木橋だったが、昭和16年(1941)の洪水で流され、現在の赤い橋は昭和38年(1963)に竣工された。山頂までは「50町」あり、この橋はその起点で「町石」がそれぞれに置かれている。秋葉信仰の広がりの深さがそれでわかるというものだが、残念ながら現在では町石の欠落が少なくない。
赤い橋の手前左側には、昭和12年(1937年)5月に津市岩田秋葉講が建立した石柱が健在だった。正面には「至神社從是三十八丁」と刻印されている。当時、日本軍は盧溝橋事件を起こして中国への侵略を本格化していき、その12月には南京を占領し大虐殺事件を起こした時代でもあった。
橋を渡ってすぐ右側に、もう一つの石柱があった。正面には「昭和御大典記念開鑿」とある。昭和3年(1928年)11月に昭和天皇が即位したのを記念したものだ。この石柱は、向かいの林業家・マルハクの栗田氏が昭和3年に「山林道」を切り開いたというが、どこの道なのかはよくわからない。昭和前期は活発な道路建設と付近の道路崩落事故などが多かった背景もあり、明治以来栗田氏の私財を投げ打って社会貢献を継続しているのがわかる。現代の事業家・首長に欠けている経済と道徳を融合する報徳思想が確認できる。
登山口を少し上がっていくと、常夜灯が多くみられるようになった。常夜灯の文字の上のマークは何なのかしばらくわからないでいた。梵字ではないかとにらんだがなかなか納得できなかった。常夜灯のパーツの名称を調べたら、上から、「傘」、「火袋」、「竿」、「基礎」の4つになるという。すると、このマークは「傘」ではないかと推察することができた。
そのすぐそばに、「第三町」という「町石」があった。「第一・第二」は近所からは見当たらない。この文字の上に「傘」の字があった。つまり「傘町石」だ。つまり、もともとは傘がある町石だったのがそのパーツを喪失しているのが推量できる。
その近くに、昔は旅館らしいたたずまいの風情のある民家があった。狸の置物も今では珍しい。おそらく往時は、二階の手摺から街道を通る旅行客を見ながら一杯やったり、「どこからやってきたんだい」とか声をかけたりているお客の姿が浮かんでくる。明治初年には旅館が11軒もあったというが、今は見当たらない。せいぜい、民家風のしゃれたカフェが生き残っている。
二階を支える梁の太さといい、本数といい、かなりのお客を収容できていたのが想像できる。表はかなりサッシなどが導入され現代風に改造されているが、家の中はきっと見どころが多いと推察する。ところで、玄関口の上に大きな看板が見えた。
どうも、篆書らしい書体だったが、皆目読めないで数日が過ぎた。左側の「会社」は読めたので、これは「有限会社」だと推測する。古い看板は右側から読むが、どうも左から読むのかなと呻吟する。右端は、「屋」に違いない。つまり、○○屋ではないかと。しかし、○○部分がどうしても解読できない。
そのうちに、このあたりに「なかや」という旅館があったのがわかった。平成8年(1996年)まで営業していたらしい。すると、これは「仲屋」ではないかと。そのように考えると腑に落ちる。「仲」という漢字に幟のようなものを付けたのではないか。ときどき、字体の形を整える、もしくは画数をかせぐために篆書ではそういう追加をすることがあるようだ。つまるところ、「有限会社 仲屋」ということに落ち着く。どうも、貴重な健康食品「卵油」を製造している会社らしい。衰退がはなはだしい名所にも地元の人間の努力・葛藤・儚さとの生きざまが垣間見えた瞬間だった