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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

黄砂でも春を捕捉する花木よ

2025-03-28 09:36:11 | 風景

 一昨日は黄砂で山並みがぼんやり。洗濯物は室内に吊るす。なんとなく焦げ臭いにおいもする。その臭いはどうやら韓国の山火事のせいらしい。自然界の壮大な迫力に感心する。季節の移り変わりの変遷に体がついていかない。しかし、木の花たちはこのわずかな変幻をしっかり補足しているから、自然界のディティールもなかなかのものだ。

 

 遅かった「河津桜」も急速に花を開ききった。東京のソメイヨシノの開花宣言と同じ日だった。この2本の河津桜は、シカの食害に5~6回も会い瀕死の重傷を越えての成熟だった。桜の皮にはよほどの旨味があるのだろう。若い枝はポキポキ折られてきた。残念ながら、近くに植えた八重桜の挿し木「松月」の2本がシカの食害で枯れてしまった。ガードはしていたものの体当たりでの破壊工作だった。

 

 満開の河津桜はまもなく葉桜になってしまう。車で20分ほど行ったところはとっくに葉桜になっていて花の残骸さえ見つけられない。そう言えば、30年前だろうか、伊豆の河津町にこの河津桜を見に行ったことがある。ところが、混みあっていて駐車する場所がなくて結局ゆっくり見ることができなくて退散した記憶がある。それ以来、人があんまり集まる所へは行かないで、わが中山間地のようなひとけがない穴場を探すべきだということになった。実際、満開の桜並木のある土手には地もとの人の姿はないといっていいほどの穴場なのだ。

 

 さらに、わが家の入り口には「ボケ」が開花してきた。ボケの見事な色といい、長く咲いてくれるサービスといい、別に植えてある挿し木一年生でも開花する生命力といい、気に入っている樹種でもある。ただし、シカも好きで20本近く植えてまもない苗木も全部食害されてしまった。

 

 と言っても、こうした花木の春爛漫は、幕末に来日した外国人には驚異の田園国家に見えたという。都市でも田舎でもちょっとしたスペースや庭には必ず花があった。現在では、この豊かさの多くはいつのまにかコンクリートジャングルに制覇されてしまった。それとともに、犯罪も人々の精神的荒廃も侵攻していっている。中学生の自殺も過去最高という。生活の中にゆとりという余白を失った日本人の行方は、すでに空き家や耕作放棄地にも近未来の症状が出ているではないか。裏庭には、「寒緋桜」がのびのび太陽の恵みを浴びていた。

 

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遠州の古刹・長楽寺に行く 1 しなやかな空間

2025-03-25 08:08:23 | 歴史・文化財

 何年ぶりだろうか、浜松市細江町に行く。そこは江戸幕府を開く直前に家康が関所を開いたという交通の要所でもある。その近くにある「長楽寺」は、平安前期に開創された真言密教の古刹で、今川・徳川家に庇護されてきた歴史ある寺だ。そこへ行く途中に、二宮尊徳の座像が鎮座していた。遠州と言えば、報徳思想の実践が未だに続いている拠点でもあるのがこの像からでもわかる。ここは、「呉石(クレイシ)学校」の跡地との石碑があったがどんな学校だったかはここからではわからないのが残念。「呉石」の地名は、くれてやるほど石が多いとのことだった。

  

 気賀地域を支配していた旗本・近藤家は大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場した井伊谷三人衆のひとりで、気賀関所を250年間も治め、この長楽寺に近藤家の別宅があったという。また、宝永大地震(1707年)による津波で壊滅的な被害を受けた農民たちに、塩害に強 い藺草の栽培を奨励していき、それは地域の 主要産業にも成長していく。そうした開明的な施策をやってきたことで長く関所運営ができた理由に違いない。 

 しかし、昭和30~40年代になると、みかん園などの転換で藺草産業は衰退するとともに、長楽寺も数十年間住職不在が続き、荒廃の危機にあった。それを救ったのは尼僧の吉田真與さんで、個展を開くほどの仏画にも精通し、その人間力に魅かれ多くのボランティアが寺の再建に今も活躍している。

  

 山門への石の階段も風情があり、その階段沿いに「ハラン」が迎えてくれるとは珍しい。こんなところにもしなやかに生きる住職の発想が生かされているようにお見受けした。

  

 さらに、室町時代の土塀だというむき出しの姿が長楽寺の栄枯盛衰があらわにされている。格式の高いお寺の多くは、そんな弱点を見せなかったり、高いお布施や寄付を要請したりの四苦八苦を垣間見られるが、そうした建前を言っていられない現状を受け入れている「悟り」がここにはある。

  

 山門に入って間もなくにあった句碑は、俳人であり二宮尊徳を崇拝して報徳運動を行い、郡長や県議会議員も務めた松島十湖(1849ー1926)の句、「きじ鳴くや 己が住む野に 余る声」が刻まれていた。キジの鳴き声を何回も聞いてきたオラにはその鋭い鳴き声に生きる悲哀と生命力を感じていただけに、これはなるほどいい句だと思った。

  

 長楽寺に来た本当の目的は、在野で山岳信仰を調査・発掘を.している研究者・山本義孝氏の講演を聞くためだった。京都生まれの山本氏は、宗教界とその周辺にこそ身分差別がひどいと小さい時からの経験から告発する。また、歴史学者は文献だけで研究していて現場に行かない先生が多いと指摘する。先生らしからぬ山本氏と尼僧の吉田さんらのしなやかな生き方がこの空間を支配していた。そして、講義の内容とお寺の魅力は次回以降へとゆっくり続く。

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そろそろ開花しようかなー

2025-03-21 23:28:39 | できごと・事件

一昨日の早朝のこと、和宮様が「世界が突然変わったぞよー」とまどろみの中にいたオイラを叩き起こしてきた。ウクライナの和平が実現したのかとも思ったが、まさか、どうも違うようだった。そして、うれしそうに「雨戸を開けなされ」とおっしゃるのであわてながら雨戸を開ける。すると、裏山の銀世界のパノラマが迫ってきた。

 

 あわてて、カメラ片手で外に行く。山並みにうっすらとにわか雪が積もっていた。すでに朝日が昇ってきているのでもう雪は消えていく過程にあった。手前に見える「河津桜」のつぼみがほんのり恥じらいでいた。街中のカワズザクラが満開だというのにわが家の春はまだまだおあずけだ。

 

 枝に積もった雪は水分をいっぱい含んだ「べた雪」だった。河津桜も開花してよいのやら迷っている様子だ。午後にはすっかり雪も消えてアイスバーンの心配もほぼなくなっていた。

 

 近くにある「カンヒザクラ」はやや日陰にあるので雪は白い。一番に咲くカンヒザクラも濃い紅色の蕾を用意している。こちらもいつ開花するかを検討中だ。当局の検討中はあてにならないが、植物は謙虚に結果を出してくれる。

  

 同じように「ボケ」も開花寸前だった。雪が降らなければ当然開花を観られたに違いない。気温は確実にあがっているが山からの風は強く冷たい。これでは確かに開花とは判断できない。

 

 そんななかでも、挿し木一年生の「ネコヤナギ」が冬の寒さの中でも枝を伸ばして開花していた。挿し木が、伐った数本の竹の防寒で生きていたことに感謝する。経験則で言えば、冬を越えられる挿し木は半分もいれば上等だからだ。それほどに、手をかけ、ハウスを用意すれば越冬もできそうだが、現実はそうはいかない。

 きょうの段階では、桜の開花はあと数日のうちに実現できそうだ。この時期、去年は見事に開花していた「ヒメコブシ」も大木になったもののまだ睡眠状態が続いている。春がすぐそこに。

 

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馬頭観音を掘り出したのは…

2025-03-18 22:29:35 | できごと・事件

 わが家の近くに古道がある。戦国の世ではこの狭い道を徳川軍は武田軍追討のため通った古道らしい。そのかたわらに古くから馬頭観音の石仏があった。またその近くには川にかかる古道の橋があり、むかしは吊り橋だった。そのため、馬が落ちて亡くなったりすることもあったそうな。また、重い荷物を持った人間が隣町へ行くために峠を登るため結界を越えるという馬も人間も命がけの行路でもあった。それでいつからか、古道の坂の途中に鎮魂と安全祈願のための馬頭観音の石仏が鎮座していた。

 

 今のところ、その川の決壊や橋が流されることはないが、高台には縄文遺跡があり、縄文人は川のそばでは生活しなかった知恵があったようだ。さて、その馬頭観音は、おそらく去年早々だと思われるがみんなが知らない間に姿を消してしまったことに気がついた。盗まれたかとさえ思ったが、少しずつ土砂も崩れていたのできっと埋まってしまったのに違いないと思われた。

 

  寄り合いでみんなに聞いてみたがその行方は誰もわからなかった。それが去年の12月だろうか、石仏はいつの間にか無事に掘り出されていた。石仏を支える重い台座もしっかり掘り出されていた。
 それを誰がしてくれたかをみんなに聞いてみたがわからなかった。となると、その周辺を整備してくれていたチーボーさん以外は考えられなかった。チーボーさんは12月の寄り合いにはいたが、1月半ばには心筋梗塞で突然亡くなっていたのだった。

 

 寒い朝だった。チーボーさんが川のほとりで倒れていたのを発見された。74歳だった。深夜の川のほとりで好きなタバコを吸うのがささやかな習慣だったという。チーボーさんはどちらかというと、目立たなくて控えめだが心優しい人だった。ついこの間まで、地元の自治会長や組合長をやってくれたばかりでもあった。役員をやってから、人が変わったように地域のことを率先して動いてくれた。その姿がとても謙虚でいきいきしていたので、第2の人生を見つけたように積極的な動き方だったのが頼もしかった。

 

 同期の仲間からは、「想い出がありすぎて寂しい、とってもがっかりだ」。若手からは、「子どものときにチーボーさんに丸刈りをやってもらって優しく声掛けをしてくれたのがうれしかった」という人が多かった。オイラも仕事を退職してまもないチーボーさんと地元で一緒に何ができるかを考えていたので残念至極だった。

 馬頭観音の掘り出しは、チーボーさんの最後の仕事だった。きっと、土中からの観音様の声をどこかでキャッチしていたのに違いない。

  

  そんなチーボーさんの活躍をしっかり見届けてくれていたのは、ごみ収集場所の屋根にいた「コケッコ」と掘り出された観音様だった。

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戦争の犠牲者はいつも子どもだった

2025-03-14 20:34:54 | できごと・事件

 先日、戦場カメラマンの渡部陽一さんの講演を聞く機会があった。期待どうり迫力ある講演だった。ゆったりした独得の語り口が子どもでも年寄りでもわかりやすい内容だった。さらに、ステージの左から右へ、もちろん中央でも全身を使ったパフォーマンスは視聴者一人ひとりに届けようとするアクションだった。その表現は、パントマイムのような手話のような豊かな所作だった。

  (画像はムビコレwebから)

 まずは、戦場カメラマンになろうと決意した経過を語った。それは学校の授業でアフリカのジャングルで狩猟する部族の話があり、それに魅かれてコンゴに飛んだ。しかし、当時はルワンダ内戦があり、民族の大量虐殺が発生していて、100万人以上の民間人が犠牲となった現場にかち合ってしまった。その前線にいたのが少年ゲリラ兵だったのでとてつもない衝撃となったという。

  持ち物のほとんどを提供してなんとか命は助かったものの、こういう現実を知らせるために愛用していたカメラを活用した戦場カメラマンになることを決意する。事実を撮ろうとカメラを向けると渡部さんの服を引っ張って泣く子どもたちがSOSを発信していた。戦場のそのSOSを届けることが責務だと感じ、それからいろんな戦場を取材し、なべて共通していたのは戦争の犠牲者はいつも子どもたちだ、ということを痛感していく。

    (画像はリクルート進学総研ebから)

  次にそうした力による戦争を抑止していくためにはどうするべきかの課題に話が展開していく。それは、ノーベル平和賞を受けたマララさんのブログから、ペンと一冊の教科書と教師がそろえば、つまり「教育の力」が究極には効力を発揮するのだと教えられそれを肌で達観する。それを補完するために渡部さんは戦場の写真を撮り続ける。

   明治初期に来日して大森貝塚を発見したエドワード・モースは、「労働階級──農夫や人足達──と接触したのであるが、彼等は如何に真面目で、芸術的の趣味を持ち、そして清潔であったろう!  下流に属する労働者たちの正直、節倹、丁寧、清潔」に感動しているが、日本の伝統的な寺小屋的な教育力が労働者・農民の品位を形成していることを見抜いたと思われる。そんな指摘を想起したが、日本の近代化をいち早く実現した裏付けにそういう「学ぶ力」が蓄積していたことも忘れてはならないだろう。

 渡部さんは剣道をやっていたようで丁寧なあいさつと相手を思いやる優しさあふれる語りで会場を魅了した。マスコミでは彼の一面しか紹介しないが、彼の意図するところをもっと取り上げてほしいものだとつくづく思う。

 

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♪花は 花は 花は咲く♪

2025-03-11 22:13:49 | 植物

 寒さを気にしているうちにいつの間にか汗をかいていた日があった。そうかもう3月になったんだ。そんな実感が湧いたのは春を呼んだ花だった。春の到来を予感して「まんず咲く」、「マンサク」(マンサク科)だった。

 花がよく咲けば豊作、花が少なければ不作など、稲の作柄を占う植物として昔から人の暮らしとの深いつながりがあったことから、「満作」とも命名された。

   今年は花数が多いので畑も豊作になりそうだ。いつもだと、「のらぼう菜」が勝手にこぼれ種でいっぱい若芽を芽吹くはずなのにどういうわけか今年は皆無だった。しかし、山猿さんからいただいた「菜の花」の種から見事な花を見せてくれた。おかげでここ数日、柔らかい菜の花のおひたしを堪能できた。

 その隣に、4月以降咲く予定の「トキワマンサク」が濃いピンクや白色の花を満開にしてくれるはずだ。マンサクはその花びらの特異な線形が目を引く。

  実生から育てている「ソシンロウバイ」がやっと花をつけてくれた。シカの食害で葉を食べられたり、たびたび枝が折られたりした連続だったがなんとかここまで来た。花はまだ3個ほどの控えめだけど。30本くらいは植えたもののなかなか開花までの道のりは遠い。

 芥川龍之介の俳句に「蝋梅や 雪うち透かす 枝の丈(タケ)」というのがある。芥川家は徳川将軍家のお茶の接待・管理する幕臣だった。明治維新で没落しこの庭の蝋梅だけが往時を残した面影だった。そんな悲喜こもごもを詠った俳句だ。

 

 家の裏側には先月から「小梅」が満開だ。ほんとうは低く剪定するつもりだったがなかなかやり切れていない。それほどに放任状態でもあるので、実も少ない。カリカリ梅は期待できるが入れ歯装着状態で難しくなった。

 

 切り花にしたいが、枝が高くて届かない。それでも、春の到来を予告してくれる予報官に違いない。冬のダークムード一色の眺望の中に突然白い小梅を見るとささやかな希望が見えてくる。きょうの3・11は東北大災害の日だが、地域復興や原発廃止がままならない人間の怠慢や忘却には呆れるが、そんな中でもポツンと咲いてくれる花一輪に救われる。

 

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千両役者・岩井半四郎の女形

2025-03-07 20:48:20 | アート・文化

  江戸時代後期の歌舞伎で大活躍し「目千両」と言われた「五代目岩井半四郎(1776-1847)」の役者絵を見る。「岩井半四郎」は初代から三代目までが上方歌舞伎で活躍し大坂岩井座の座元も兼ねた。四代目以降は江戸歌舞伎の女形を代表する家柄となった。

   なかでも、「五代目岩井半四郎」は、その眼差しとおちょぼ口をはじめ色気・愛嬌・容姿でも魅力的だった。さらに、悪婆・若衆・荒事のどれをとっても生き生きと演じられるまさに千両役者だったという。屋号は舞踊の名手を数多く輩出している「大和屋」で、「坂東三津五郎」や「坂東玉三郎」らを擁する一門である。 

  

 役者絵を描いたのは「香蝶楼(カチョウロウ)国貞」(のちの三代目歌川豊国)。尊敬していた画家・芸人「英一蝶」(ハナブサイッチョウ)の名から「香蝶楼」の号(1827-1848)を名乗る。天保12年(1841)に上演された歌舞伎「熊谷陣屋」の場面、武将の熊谷直実の妻「さがみ」を演じた五代目岩井半四郎の女形を国貞は羽子板に写している。やはり目ぢからのある目とお歯黒の口とを強調している。

 髪型は勝山髷。吉原の遊女・勝山が流行らせたという髪の輪っかが目立つ力強い元禄スタイルで、武士の奥方にも浸透していったことがこの絵でわかる。また、大きなべっ甲が武将の権威を見せている。

  羽子板上にあるのは羽根であると同時に大和屋のもう一つの家紋「チョウジ(香辛料のグローブ)のつぼみ8個をデザイン」した替紋(ヤツチョウジ)があり、その下には「三つの扇をデザイン化」した定紋(ミツオウギ)と独楽とを表現していると思われる。独楽のデザインは初代半四郎の「丸に三ツ扇」の定紋であり、それは初代の生家が扇商だったことによる。

  

 国貞の役者絵の版元は、小伝馬町にある「伊勢三板」と刻印され、つまり伊勢屋三次郎の出版社ということになる。伊勢屋を名乗る版元は合計で6軒もあった。検閲済みの「極」印にはよく見ると「B」の形が発見できる字であるのが特徴。

 ついでに、大河ドラマ「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎の印は、蔦の葉のロゴで美人画の有名な浮世絵を見るとこれがよく出てくる。国貞よりやや先行した重三郎らの「極印」も寛政から文化年間にかけて検閲された丸っこくて、歌麿・写楽らの全盛時代だった。

 一枚の役者絵からいろいろな情報があることが伝わるが、当時の庶民は絵を見て「判じ絵」のようにすぐ分かったようだ。

 

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久しぶりの薪割り

2025-03-04 22:22:47 | 屋外作業

 先週、寒さが厳しいというので急いでダルマストーブの薪割りを行う。4~5年前に裏山の山林を地元の協力で伐採した樹木がころがったままだった。それを何とか丸切りしてマサカリで薪にする。木目がまっすぐなものは一発できれいに割れるが、節があったり木目が曲がっているとなかなか割れない。

 

 残念ながら、小雨がパラパラ落ちてきている中での作業となってしまった。しかし、今やっておかないと春を迎えられない。裏山にある丸太を下まで運搬するのも手作業となる。生木ではないのですごく重いわけではないが、続けていくと腰が痛くなっていくのがわかる。しかも、斜面でのピストン運搬も足がもつれそうだ。失敗するとその丸太が家に突入するので慎重に下まで運ぶ。

   

 雨で多少燃えにくくなっているが、古木でしかも虫食いもあるので燃えると結構早く燃えてしまうと思われる。樹種が杉・檜だとあっという間に燃えてしまうが、長持ちするコナラなどが多かったようだ。ダルマストーブに入る幅18cm以内と長さ40cm以内を考えて薪割りを行う。

 

 手こずった丸太は、くさびやナタなどいろいろなアイテムを駆使して鉄のハンマーでとどめをさす。生木だとなかなか力と技もいるが、さいわい古木だったので比較的スムーズに処理作業は順調だった。やはり、いろいろな道具があると想定外のことに対処できる。

  

 おかげで4つの収納コンテナに満杯となった。畑に散在している茶の木の残骸を集めて一緒に燃やせばちょうどいい調和の熱源となる。しかも、畑もきれいになるし山もきれいになるという一挙両得の効果が望める。

 

 さらに、「コジキイチゴ」の枝が控えている。この棘は半端なく痛い。すでに燃やしたが火ばさみでつかまないと衣服や足に絡んでくる曲者だ。実のイチゴはそれほど旨いとも言えないが、いっぱいあればジャムにもなる。しかし、他の木に覆いかぶさって太い幹になってしまうので早く手を打って駆除しないと被害が甚大になる。というわけで、コジキイチゴを灰にして畑の肥料に貢献してもらう。

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