山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

木下恵介記念館は白亜の洋館だった

2022-10-10 22:35:58 | 歴史・文化財

 友人の紹介があって「木下恵介記念館」に行くことになった。浜松の都会に出るのは何年ぶりだろうか。山奥から出たので都会のビル群の風景の変容に圧倒される。近くの駐車場から歩いて記念館に着いたら、いかにもモダンな建物があった。前身は、銀行家らのサロンとして1930年に(昭和5年)建てられた「浜松銀行集会所」だった。浜松大空襲になんとか生き延びた貴重な歴史的遺産でもある。

       

 半円のアーチ窓の上の白壁にユニークなレリーフ模様があった。よく見ると、おじさんの顔のように見えたのは観察眼が鄙びた斜視のせいだろうか。当時の先端を切ったであろうこの白亜の洋館は、アメリカの旧スペイン植民地の建築様式の影響を受けた「スパニッシュ様式」のようだった。玄関前のポーチ・車寄せだけでも当時の住民を驚かせたに違いない。その前にあるソテツ・シュロの植木は地中海風デザインが彷彿とさせる。設計者は、浜松出身の中村輿資平(ヨシヘイ)。

        

 彼は、1921年(大正10年)に米・独・仏・英など17ケ国を1年かけて視察している。静岡県内の公共建築の中心は彼が手掛けたと言ってもいいほどの活躍ぶりだ。しかも、植民地朝鮮・満州国や都内の学校や銀行などにも精力的に建設している。当代一流の辰野金吾の設計事務所で頭角を伸ばし独立していったというわけだ。記念館の中は、輿資平の資料やもちろん木下恵介のポスター・愛用品なども展示されている。

   

 館内をゆっくり回る余裕はなかったが、アールデコ風のガラス窓や高級感あふれる家具・調度が目を引いた。ガラスの模様はバラの花だろうか。当時「日本楽器製造KK」(現・ヤマハ)は家具も生産していて、輿資平と旧制中学の同窓だった川上嘉一社長との関係で、特注品の家具が配置されていてそれも見どころだ。

 また、輿資平の次男で戦死した兼二は、作家・竹山道雄の従兄弟にあたり、兼二の死は『ビルマの竪琴』の執筆の動機となった。記念館にはこうした多様な坩堝にあふれている。

 

 

 

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