
何年ぶりだろうか、浜松市細江町に行く。そこは江戸幕府を開く直前に家康が関所を開いたという交通の要所でもある。その近くにある「長楽寺」は、平安前期に開創された真言密教の古刹で、今川・徳川家に庇護されてきた歴史ある寺だ。そこへ行く途中に、二宮尊徳の座像が鎮座していた。遠州と言えば、報徳思想の実践が未だに続いている拠点でもあるのがこの像からでもわかる。ここは、「呉石(クレイシ)学校」の跡地との石碑があったがどんな学校だったかはここからではわからないのが残念。「呉石」の地名は、くれてやるほど石が多いとのことだった。
気賀地域を支配していた旗本・近藤家は大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場した井伊谷三人衆のひとりで、気賀関所を250年間も治め、この長楽寺に近藤家の別宅があったという。また、宝永大地震(1707年)による津波で壊滅的な被害を受けた農民たちに、塩害に強 い藺草の栽培を奨励していき、それは地域の 主要産業にも成長していく。そうした開明的な施策をやってきたことで長く関所運営ができた理由に違いない。
しかし、昭和30~40年代になると、みかん園などの転換で藺草産業は衰退するとともに、長楽寺も数十年間住職不在が続き、荒廃の危機にあった。それを救ったのは尼僧の吉田真與さんで、個展を開くほどの仏画にも精通し、その人間力に魅かれ多くのボランティアが寺の再建に今も活躍している。
山門への石の階段も風情があり、その階段沿いに「ハラン」が迎えてくれるとは珍しい。こんなところにもしなやかに生きる住職の発想が生かされているようにお見受けした。
さらに、室町時代の土塀だというむき出しの姿が長楽寺の栄枯盛衰があらわにされている。格式の高いお寺の多くは、そんな弱点を見せなかったり、高いお布施や寄付を要請したりの四苦八苦を垣間見られるが、そうした建前を言っていられない現状を受け入れている「悟り」がここにはある。
山門に入って間もなくにあった句碑は、俳人であり二宮尊徳を崇拝して報徳運動を行い、郡長や県議会議員も務めた松島十湖(1849ー1926)の句、「きじ鳴くや 己が住む野に 余る声」が刻まれていた。キジの鳴き声を何回も聞いてきたオラにはその鋭い鳴き声に生きる悲哀と生命力を感じていただけに、これはなるほどいい句だと思った。
長楽寺に来た本当の目的は、在野で山岳信仰を調査・発掘を.している研究者・山本義孝氏の講演を聞くためだった。京都生まれの山本氏は、宗教界とその周辺にこそ身分差別がひどいと小さい時からの経験から告発する。また、歴史学者は文献だけで研究していて現場に行かない先生が多いと指摘する。先生らしからぬ山本氏と尼僧の吉田さんらのしなやかな生き方がこの空間を支配していた。そして、講義の内容とお寺の魅力は次回以降へとゆっくり続く。