山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

過疎の寺は楚々として

2023-12-13 23:11:16 | 歴史・文化財

 明治の場末の村は王子製紙の進出によってマチになった。映画館もできた。いまではその面影を探すのも苦労するほどの過疎が進行している。山並みと茶畑が似合う風景を満喫しながら短時間ながらそろりと歩いてみた。浜松市春野町にある曹洞宗の「龍田山・圓満寺」だった。

 曹洞宗は、宗派の開祖の「洞山良价(リョウカイ)」の「洞」と弟子の「曹山本寂」の「曹」の頭文字を合体してつけた名前だという。浄土真宗の信者は日本で一番多いが、曹洞宗は寺院の数は日本一だ。その多くは、発展途上の村落に影響力を持った在地領主「国衆」が活躍した15世紀以降に開創している寺院だ。都市は他の宗派がすでに固めていたので、その間隙を縫って地方を中心に進出していったというわけだ。

           

 小さな寺だが門らしきものがないので境内をそろりと歩けるのがうれしい。立派な石碑に「圓満寺」とあり、裏に寄進者の名前が彫られている。字面を読みたいが苔むしてなかなか解読しにくい。間違っているかもしれないがどうやら、昭和34年(1959年)に建立した板碑のようだ。ひと気がない。静寂がすべてを支配している。

            

 寺の開創は、1662年(寛文2年)らしいが、隣の森町三倉の蔵泉寺の古文書には室町時代の至徳年間(1384-1388)ごろに円満寺の記述があったという。というのも、道元を祖とする曹洞宗が庶民に広まり、その影響が遠州・東海地方に布教されていくのが15~17世紀。その基礎を築いた禅僧が弟子の多かった「如仲天誾(ジョチュウテンギン)」。森の石松で有名な森町の「大洞院」がその拠点となった。

     

 本堂近くにこれも立派な鐘楼があった。「勤労平和鐘」との石碑があったが、そのいわれの意味が分からない。戦時下の勤労奉仕中に被災したのを鎮護し世界平和を祈念したのだろうか。やはり、説明板や寺としてのメッセージがほしいところだ。

         

 梵鐘は厚さ7~8cm近くもあり、建物も鉄製で頑丈なつくりだ。本堂といい鐘楼といいかなりの財力が投入されている。田舎でこれだけのものがあるだけでも驚愕だ。歴史が古いだけでなく、マチになってからの繁栄ぶりも想起される。

 小春日和のぬくもりはいかにも平和の尊さを祝福している。がしかし、金権に汚された政治・オリンピックを許してしまう日本の能天気さにもいい加減あきれるが、ウクライナ・ガザ地区での民衆への殺戮に神や仏はどうして黙り込んでしまうのだろう。今こそ神や仏の出番ではないか。むしろ、日本の神社が国家神道のお墨付きをいただき侵略戦争を加担していったり、ロシア正教がプーチンの戦争を賞賛するなど、宗教の本旨から逸脱してしまっているのはいかがなものか、と心痛めることが少なくない。

 

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