鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊また来る日まで。

2015年02月27日 | Weblog
通い慣れたる学校前の道を通った時に、民家のイヌに吠えられた。過疎地ゆえ、イヌが人に慣れていないようだ。この道が国道と交差するところに宮部商店があって、その当時はそこで学用品を購入していた。このほかにも、松沢商店、大原商店、富岡商店でも、学用品は購入できた。鉛筆1本が5円か10円、ノート1冊10円の時代だった。
過疎化のスピードの速さに驚く。鷹泊小学校が閉校になった20年ほど前は、子供の数が減った程度に思っていたが、今はお年寄りを含めた全体の数が激減してしまった。
数年後はどうなるのだろう。地方消滅ということばが云われているが、鷹泊出身者には、来るだけで落ち着く場所である。人口減少の流れは止めづらいものであるが、ふる里鷹泊はいつまでも残って欲しいとの願望を強くした。

このブログは、鷹泊を再訪するまでしばらく休止します。読んで下さった方に感謝します。


写真は、昔の上广からリフレッシュプラザ鷹泊を見たもの。左手の家は、学校前の道筋にある民家。
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鷹泊の道で思うこと。

2015年02月26日 | Weblog
永井山でのスキーの帰りは道をスケーティングして行けるところまで行った。橋までは可能だったと思う。
なんといっても、冬には車が走っていなかった時代だ。除雪車による冬道の確保が始まるまでは(昭和40年頃だと思う)、豪雪地鷹泊では、玄関よりも、道路の位置が高くなり、家の前に階段を造って、道路に出たものだった。
夏は夏で、今では危険極まりない行為であるが、道路でキャッチボールすることも可能であった。もちろん、たまに車が通過するので注意しながらではあった。

 
写真左は永井山の下の山。写真右は今も残っている駅横にある農協倉庫。この屋根のすぐ下付近まで雪が積もっていた。
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紅葉の永井山を見て、スキーが盛んだった時代を懐古。

2015年02月24日 | Weblog
昭和30年代、スキーは盛んだったが、40年代には、スキーをする人は少なくなったようだ。永井山は、あれから50年経過して木々も生い茂り、スキー場の体を成さなくなっているようだ。スキー場拡張のために、生徒を動員してナタやノコで樹の枝を払い、ブルドーザーで整地した結果、頂上から滑ると、かなり長い斜面を滑れるようになった。とはいえ、雪を踏み固めるのが大変だったので、頂上まで行くことは少なかった。当時は市街地から、永井山スキー場を見ると、ポツンポツンとスキーヤーの人影が見え、それを確認してからスキーを担いで永井山へ行ったものだった。
永井山も下のなだらかな傾斜の山は、小学校低学年用で、上の上級者向けの山デビューは小学4年生だった。豪雪地の鷹泊ということで、何と言ってもスキーの思い出は強く残っている。

 
写真左は、橋からみた永井山の風景。50年の歳月で、木々が生い茂って、昔とイメージが大きく異なっていた。中央奥の山を越えて、左奥に見えるのが永井山頂上。写真右は、手前の初心者用の山。傾斜部分が水田になっているので、これまた昔のイメージはない。
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汚い作業も、今になって思うと貴重な体験

2015年02月23日 | Weblog
細田先生の指揮によるダムでの植樹作業、それと同様な「汗する教育」は半世紀前には随所で見られた。
またまた、当時の学校の思い出に戻ってみると、学校の裏山で、ジャガイモを植え付ける実習が記憶に浮かぶ。それ自体は、農村鷹泊では至極あたりまえの農作物の収穫であるが、今なお忘れないのはその時の堆肥に関する思い出である。
校舎の水飲み場のすぐ外側に堆肥場があった。動物の糞ではなく、何かの植物を腐らせて、堆肥にしていたようだが、いかにも汚い場所というイメージがあった。
触っただけで病気になりそうな黒い液体の染み出た堆肥場に、長靴ではなく素足で入り、その堆肥を素手でつかみ、芋畑まで運んだ。畑では、種芋の隣にその堆肥を並べていく農作業であった。究極の有機栽培である。その日の作業は嫌々行ったように思う。でもジャガイモを収穫したときの感動は最高であったし、その経験は、他の学校ではできなかっただろうと、むしろ誇らしい体験であった。


写真は、神社境内の南側にある赤の際だつお大師さんの鳥居。この近くに学校の収穫実習に使っていた畑があった。
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鷹泊ダムには、いろいろ知られていない歴史あり。

2015年02月20日 | Weblog
「ふる里鷹泊」には、鷹泊ダムができて間もない昭和32年に、中学3年生の栽培実習としてダム周辺で、さくら・つつじの苗木移植を行ったと書いてあった。根付きが悪く、今は残っていないようだが、ちょうどこのあたりに木を植えたんだろうと思いつつ、今の鷹泊ダム周辺の風景を楽しんだ。




写真は、「ふる里鷹泊」から転載した、中学生の苗木移植風景と今の鷹泊ダム
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鷹泊ダムのあまり知られなかったこと

2015年02月19日 | Weblog
鷹泊ダムへは、毎年春秋の遠足で行くことが多かった。少なくとも年1-2回は訪れた場所であるが、その鷹泊ダムに関する知識はあまりない。ということで、細田先生の書かれた「ふる里鷹泊」を読み直してみた。それによると、鷹泊ダムができる前の計画のことやら、ダムが完成してからはダムを観光化しようという試みなどが記されていた。時代が時代で、観光客は集まらなかったようだが、知らなかったことを沢山知ることができた。
写真は、「ふる里鷹泊」とそこから転載した鷹泊ダムでのボート写真(画質が悪くて見づらくなっています。)

 
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鷹泊ダムの紅葉は、すばらしかった。

2015年02月18日 | Weblog

鷹泊ダムへの道は、人家が少ないゆえ、交通量は極めて少ない。田園風景を楽しむべく、ゆっくり車を走らせていると、大型トラックに何回か追い抜かれた。休日にもかかわらず、行き来していたのが印象的であった。ダムのすぐ手前でも砂利採取をしていた。地元、富岡産業のトラックと判明した。
鷹泊ダムに着いた。その時によって、水門からの放水の程度は違っても、ダムの堂々とした姿を見るといつもながらほっとする。今回は、水門は閉じられていた。紅葉の季節だったので、周囲の紅葉はすばらしいものであった。

下の写真は紅葉が美しい鷹泊ダム付近の風景。

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鷹泊ダムへ向かう道の途中で、公宅跡を発見

2015年02月16日 | Weblog
何はともあれ、今回もダムへ行ってみることにした。
鷹泊ダムは、今となっては鷹泊で最大の財産といえる。途中、小ヌップ橋を少し通り過ぎたあたりの道の左側に、(鷹泊ダム、発電所職員の)公宅跡が目に入った。いつから人が住まなくなったのだろうか。完全に朽ち果てており、まさにつわもの共の夢の跡といった光景である。同級生がいたこともあり、ここには何回も遊びに来たことがある。
確か、同じ造りの家が4棟あったと記憶している。コンクリートブロックを積み上げた上に住居が乗っかかったような造りで、妙に土台が高い家だと思っていたが、雨竜川氾濫に用心しての造りだったようだ。


写真は鷹泊ダム・発電所職員の公宅だった家の廃墟跡。
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ふるさと鷹泊の将来は如何に。

2015年02月13日 | Weblog
鷹泊小学校は平成9年3月に94年の歴史に幕を閉じ、多度志小学校に統合された。20年前(統合3年前)の平成6年度のデータを見ると、就学児童(新一年生)の数は、多度志12名、幌成5名、鷹泊2名で多度志地区の合計は19名であった。20年後の今年(平成27年度)は、統合先の多度志小学校の新一年生がトータルで1名とのこと(6学年で24名との情報)。来年はどうなるのだろう。このままだと、ふるさと鷹泊が消滅に向かってしまうが、この流れは、何も鷹泊に限ったことではなく妙案は見つからない。

 
写真は、橋から見た雨竜川の上流(左写真)と下流(右写真)。過疎化の流れは著しいが、鷹泊を貫く雨竜川の流れは昔と変わっておらず心が安らぐ。
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あっという間の過疎化の進行で子供の姿が見えない鷹泊

2015年02月10日 | Weblog
総人口が100人を切っているので、当然ではあるが、子供の姿を全く見かけない。小中学生は一人もいないのだろうか。子供が多かった昭和30年代を綴っているこのブログであるが、当時を思い起こすと、この状況はとても信じられない。当時は一学年20-30人で生徒数が少ない小規模校と思っていたが、今となってはちょうどいい人数だったようだ。あらためて良い時代を山村の鷹泊で過ごせたと思っている。


写真は、昔、上鷹といわれた付近。魚屋さんが左手前にあり、奥に鉄工所があった。今は寂しさを象徴するように、ススキが生い茂った国道沿い。
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