鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

おたまじゃくしをとって遊んだ自然豊かな鷹泊の野山や川

2010年09月29日 | Weblog
国道から脇道に入って、小道を歩いてみた。
雪が融けた頃、おたまじゃくしのたまごはちょっとした水地に、エゾサンショウウオのたまごは沢の水たまりにいた。触るとグジョグジョ、ヌルヌルした気持ち悪い感触だが、子供達は平気だった。土地改良で原野が水田に替わり、里山の風景も変貌した。
写真は、青年会館があった付近の沼から○野旅館の下をくぐり堤防横の流れにそそいでいた小川の今の姿であるが、水路変更で直線的な流れの小さな用水路になっていた。そういえば、あの当時、鷹泊に旅館があったということは、利用する旅人がいたということだろうか。昭和20年代のことはわからないが、30年代でも学校の先生が宿舎として利用していたのは覚えている。


写真は当時の沼から旅館を通って堤防の川につながる水路 
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昔は道路端での「どん」の実演販売が楽しみだった

2010年09月27日 | Weblog
鷹泊市街地を貫く国道275号線は、歩道部分もきれいに舗装されているが、半世紀前は当然ながら砂利道だった。おやつなどに恵まれない当時、たまにその道端で膨化食品の「どん」(「パットライス」が正しい名前かな)の実演販売があった。販売といっても、自宅にあった米や乾燥トウキビ一合ほどを持って駆けつけ、圧力釜でふくらませてもらい代金を払うしくみだった。
米はパットライスに変わり、トウキビはポップコーンに変わった。この時使用したトウキビは翌年蒔く予定の乾燥保存してあるものだった。米袋に一杯になったどんを持ち帰った。
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雑品(ざっぴん)集めの経験

2010年09月24日 | Weblog
床屋さんの向かいあたりに雑品屋の○○さんの家があった。 今で言う廃品回収業であるが、子供達からみると雑品(ざっぴん)集めでお世話になった親方みたいな人であった。拾った銅線や空き瓶などを集めて持って行くと、10円、20円とかで買い上げてくれ、うれしいお小遣いになった。ゴミあさりをしているようなイメージかもしれないが、暗い深刻なものではなくいわば遊びの一環としてのものであった。資源再利用の走り?ともいえる。ともかく、鷹泊の街を歩いていると貧しくも楽しく育った時代をいろいろ思い出す。

写真は道端に咲いていた水仙
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中鷹の床屋さんがあった付近に郵便局

2010年09月22日 | Weblog
 昔の苗圃(びょうほ)へ続く道が分岐するあたりに床屋の○橋さんがあったが、今はそこに建物は何もなかった。昔は理容店とは言わず、床屋といっていた。あの赤白青の床屋さんの円柱形のサインポールといつも笑顔だった床屋のおばさんを思い出す。当時は、ぼうず頭の子は自宅で頭を刈ってもらうことが多かったようだが、卒業式とかの行事の前は、いつも子供であふれていた。料金は100円で、お世話になった10年ほどの間ずっと変わらなかった。
 今は郵便局が、この付近に移動してきている。昔の床屋さんがあった位置よりもわずかに南側と思われた。昔の地域区分でいうと、下鷹の一番中鷹寄りの位置である。


写真は今の鷹泊郵便局
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中鷹には農耕馬の装蹄をしていた場所もあった 

2010年09月19日 | Weblog
あの当時は、農作業のための馬がたくさんいた。中鷹にあった床屋さんの北隣りには、装蹄といって、馬の足に蹄鉄を付ける場所があった。馬の爪が痛まないようにと、赤く熱した蹄鉄を蹄に当てつけるので、熱そうに思えたが、爪と同様で痛くもかゆくもないということだ。しかし、爪の焼けるようなにおいは嫌だった。
当時鷹泊に鉄工所が2軒あったのは、農機具とかで需要があったからで、馬具を製造販売していた○安馬具店もあった。
冬の道は馬そりが活躍した。車のための除排雪がなかったあの当時の冬は、降雪のために道路が玄関よりも高くなっていた。 馬そりの通った後に出来た轍というか2本のそりの跡が歩く道だった。馬糞も所々に落ちていた。
車が増えて、冬道の除雪が始まったのは何時だっただろう。昭和40年頃だっただろうか。

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付けで買い物をしていた、魚屋さんの思い出

2010年09月17日 | Weblog
中鷹には魚屋の○浦商店があった。よく利用していたが、このお店では通帳を使って、付けで買い物をしていた。つけ払いは飲み屋で常連の客が行うという印象であり、取りっぱぐれがなかったのか懸念されるが、今と比較すると貧困の時代だったとはいえ、昔の鷹泊では地域の信用、信頼関係で成立していたのだと思う。あの良き時代の鷹泊だったとあらためて思う。
○浦さんは自転車屋も兼業していたが、鷹泊で自動車を初めて導入したのは、魚屋さんでなかっただろうか。自動車といってもオート三輪であるが、鷹泊にあった魚屋さん2軒ともオート三輪を持っていた。
お祭りに御神輿といっしょに、何人もの子供達がオート三輪の荷台に載せてもらって町内を移動した。今なら道路交通法違反と思われるが、これまた古き時代のなつかしい思い出である。
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ゴミ捨て場に繋がっていた道は、冬限定の近道

2010年09月15日 | Weblog
精米所の向かいの○田さんの横からは、堤防への道があった。その道は堤防の奥のゴミ捨て場に繋がっていた。ゴミをリヤカーに乗せて投げにいったりした。今はゴミ捨て場がなくなったことも関係してか、道はなくなり、小道だった部分は畑に変わっていた。半世紀前、冬にはこの道から凍った雨竜川を渡って川向こうの竜水へ近道をしていた人もいた。寒冷地の自然現象を巧みに利用するということであったが、危険な氷上通行なので、もちろん子供達には禁止令が出ていた。
氷上通行とは別に、寒冷地鷹泊では、春先の堅雪は普段行けない場所へにも行ける魔法の道だった。しかし、朝方は強烈に冷えて雪の表面がかちかちに堅くなっていても昼間は雪が軟らかくなり油断すると穴にはまったりするので多少の危険はあった。 
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精米所もあった昔の中鷹地域

2010年09月13日 | Weblog
今はなくなったお寺(大祥寺)の南側には○田精米店があった。ここは最初の頃、お菓子やさんも兼ねていた。(お菓子やさんといっても製造していたわけではないが。)並んだ菓子ケースに各種の駄菓子が入っており、量り売りをしていて、選んだお菓子を紙袋に入れてもらっていた。お菓子を選ぶのは子供にとって楽しかった。
精米すると、米糠が出来る。米糠はたくあん漬けにかかせない。あの当時、秋には各家にて大根を縄で結んで干している風景があった。この風景は今の鷹泊にあるのだろうか。もちろん、たくあん漬けでなければ米糠は不要だが。


写真は道端に咲いていた雑草
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戸数は減り、商店はわずか1軒だけ残っている鷹泊

2010年09月10日 | Weblog
商店が相次いで撤退し、残っている唯一のお店と思われる○沢商店が、昔より北側の位置にあった。過疎化に伴い必然的に商店もなくなったというのが正しい表現かもしれない。聞くところによれば、現在鷹泊の戸数は40をきっているとのこと。鷹泊の人口も何となく想像できる。寂しい限りだ。
ともかく、子供がそれなりにいて活気があった半世紀前には、狭い地域にいろんな店があった。
○岡さん、○原さん、○澤さん、○部さんではノートなどの学用品も売っていた。 
ノート 鉛筆が10円の時代だった。


写真は鷹泊で1軒だけの○澤商店
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中鷹散策 昔の街並みを回顧

2010年09月08日 | Weblog
昭和30年代、郵便局は鷹泊市街地の中央部に位置していた。すなわち、今も昔と位置を変えていないと思われる鷹泊駐在所の隣にあった。(ここで訂正。以前、駐在所と書くべきところを派出所と書いてしまい、お詫び訂正します。派出所という表現は今は使わず、交番と呼ぶのが正しく、また鷹泊の場合は交番ではなく、警察官が常駐しているので、駐在所でした。)
当時の郵便局の向かいにあった消防番屋はもう見あたらなかった。消防自動車の車庫の上の二階に畳敷きの場所があり、子供達の行事、集まりで使用させてもらったこともあった。
消防番屋の南側には教員住宅の古い建物があり、そして農協の店舗があった。さらには食料検査事務所もあった。ともかく昔の記憶の中に存在した建物はみんななくなっている。農協の店舗もなくなっていたが、昔農協があった位置よりも南にJAのガソリンスタンドだけはあった。歩くとなつかしい記憶がよみがえってくる。記憶との対話を楽しんでいる時間であった。


写真はJAのガソリンスタンド
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