鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

バス待合所「鷹泊自然公園前」から鷹泊自然公園へは4kmの距離あり

2008年02月29日 | Weblog
鷹泊小学校跡のリフレッシュプラザ鷹泊まで戻ったところ、電話ボックスみたいなJRバス深名線待合所があるのにに気付いた。バス待合所名は鷹泊自然公園前待合所と書いてあった。鷹泊には2箇所のバス待合所があるが(もう一つは以前のブログに載せた鷹泊待合所)、鷹泊自然公園というのはここから4km先の鷹泊ダムにある公園のことだ。つまり鷹泊自然公園を目指して来た人がここ鷹泊自然公園前で降りると、テクテク1時間程歩かなければいけないことになる。誤解をまねかないためにもリフレッシュプラザ鷹泊前とでもつければいいのにと思った。でも地元の人は間違わないだろうし、マイカーの時代だからトラブルも生じていないのだろう。ともかく国道275号線から道道693号線に入って鷹泊ダムへ向かうこととした。
写真はバス停「鷹泊自然公園前待合所」 リフレッシュプラザ鷹泊の看板が少し見えている

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道道693号線(鷹泊ダム・鷹泊自然公園方面)は招く

2008年02月27日 | Weblog
半世紀前に行ったペンケ神社は、100段くらいの長い階段を息せき切って登ったところに祠と土俵がある境内があった。鷹泊神社以上に険しい参拝道だった。高齢化社会では、高いところにある神社参拝は一仕事だなどと思いつつ車を走らせていた。
ところが275号線を進み、ここで左折してペンケ方面へと思った場所が工事中のようで道がなく、この方面からはペンケに到達不能だった。アレッ、ペンケの人はどうしているのだろうといぶかりつつも、むなしく撤退。Uターンして、鷹泊市街へ戻ることとした。鷹泊市街近くで裏側から神社をみるとまた違った感じだ。大きな道路標識があって、右折すれば道道693号線(鷹泊ダム・鷹泊自然公園方面)と書いてある。
写真は北側から見た鷹泊神社

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二号沢は山の恵みの宝庫だった

2008年02月25日 | Weblog
知呂布橋の手前の小道を右奥に進んでいくと、二号沢ということになる。昔は沢沿いに田畑があったが、今はどうなったのだろうか。その道の周りでは、秋には山葡萄、コクワなどが豊富に採れた。子供仲間と、よく遊びにきた場所だ。酸っぱい山葡萄を採った時は、数日後もう一度採りにきたりした。霜が降りた後の表面が少し白くなったブドウは甘みが増し、霜のせいで甘くなったと思っていたが、今考えると霜の作用というより、霜の降る時期にぶどうの糖分が増していたということだと思う。 コクワもとったばかりの時は甘くなくても、米びつの中に置いておくと発酵して甘くなった。 ヤマリンゴも酸っぱいながら食べたことがあり今となってはなつかしい記憶だ。二号沢は入り口だけ見て、奥の探索はせず、ペンケへと車を走らせた。
写真は知呂布橋から二号沢に向かう小道

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ペンケへ向かう途中の二号沢

2008年02月22日 | Weblog
鷹泊神社を見たらペンケ神社も見たくなり、ペンケに向かった。鷹泊小学校での5月の遠足は、この頃に満開になる桜を観にペンケ神社へいくことも多かった。境内に咲き誇っていた桜の下でお弁当を食べたことががなつかしい。また鷹泊神社と同じく、賞金目当てで祭りの相撲大会参加のために、毎年のように自転車をこいで出かけたところでもある。
ペンケへ続く国道の途中に、小さな上り坂があって、そこを過ぎると二号沢の橋‥…のはずであった。しかし国道は見違えるように整備されていて、昔の小さな坂はなく、真っ平ら状態で、ほどなく二号沢の橋に到着した。橋を少し幌加内寄りに行ったあたりに下○さんの家が昔あったが、ここが鷹泊の集落の北端だったと思う。学校のマラソン大会でこのあたりまで走って折り返したことがあった。橋の名前は知呂布橋と書いてあった。
写真は二号沢にかかる知呂布橋
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鷹泊神社の隣にはお大師さん

2008年02月20日 | Weblog
神社境内の少し先を歩いていくと、赤い鳥居が立っていた。昔はお大師さんを祀ってある祠があった場所だったので姿形はだいぶ異なっているがお大師さんを祀ってある鳥居なんだろう。お大師さんとは弘法大師のことなので仏教に鳥居とはこれいかにと思ったが、鳥居には「神様や仏様がいる場所への入り口」という意味があり、寺に鳥居があっても不思議ではないらしい。学校の裏手にあたり、学校畑の隣になるが、昔は学校の裏山をお大師山と呼んでいたが、今もその呼び名が残っているのだろうか。
その昔は、お参りの終わった後にお供え物のお菓子を子供達に配ってくれるのでその前に並んだのが記憶にある場所であった。 ここもかなりカラフルで目立った赤色に塗られている。しかし静寂に包まれたこの辺りには人が訪れるような雰囲気はなかった。周囲の伐採されたままの倒木が余計に寂しさを募らせた。
写真は鷹泊神社の隣のお大師さん
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鷹泊神社境内の土俵も荒れ野に埋没

2008年02月18日 | Weblog
 

神社の坂を半分登ったところの神社境内には、30年代には土俵が設置されていた。祭りの時には奉納子供相撲大会が開かれた。勝てば20円、負けても10円もらって、子供達にとってはうれしい臨時の小遣い収入であった。5人抜きは50円とかもらえたので、必至にがんばったり、そのまま祭りの出店で使った。当時は相撲が大変盛んだった。 北空知管内中学校対抗相撲大会もこの場所で開かれたことがあった。中学生がまわしをして相撲している姿が印象的だった。応援団の応援風景を思い出す。
その土俵の周辺には大きなどんぐりの木があり秋にはその木の下にはたくさんのどんぐりが落ちていた。。周囲にもたくさんの木が生えていたが、何年も前に伐採されてしまったようだ。昔の遊び場だった面影は皆無である。
写真は鷹泊神社境内の、昔は土俵のあった付近(左)とそこから神社を見た風景(右)

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鷹泊神社は昔以上に目立っていた

2008年02月15日 | Weblog
さて旧鷹泊小学校を後にして、隣にある鷹泊神社へ行ってみた。応援歌で ♫ 神社の森の山桜 ♫ と歌われた鷹泊神社もなつかしい場所だ。 明治39年に土佐御嶽神社の分神を迎えて鷹泊神社が建立されたという。神社本体は赤くカラフルに塗られ、周囲の木々が少なくなったせいか非常に目立っている。
昭和30年代、子供たちによる祭りの神輿行列もここから出発し、神社の幟を先頭に町中を行列した.。今なら道路交通法違反かもしれないが、オート三輪の荷台に神輿とともに子供たちもわんさと乗って、街中を移動した。
神社の坂は今は階段になっていたが、当時は階段でなかったので、雪が少しでも積もればスキーができた。すなわち鷹泊で一番早くスキーに乗れた場所ともいえる。鳥居の位置が昔より奥側すなわち坂のすぐ下にあった。この鳥居の位置だとスキーで転倒したとき鳥居への激突の危険でまずいが、今は過疎化、少子化のためにここでスキーをする子もいないのであろう。
写真は鷹泊神社

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旧深名線資料室は鷹泊の文化遺産

2008年02月14日 | Weblog
リフレッシュプラザ鷹泊まで来たのであるから、併設の旧深名線資料室を観なくてはと中に入って見せてもらった。入館料は無料である。元は教室だったと思われるスペースに、所狭しと、鉄道ファンには垂涎物のお宝グッズが展示されている。 券売機、レール、駅名標、時刻表、信号機等々。
信号機は昔、時計を持っていない子供たちにとって、時計がわりにもなっていた。信号機は、遠くからでも見えたので、信号が下がっていると日5、6便の深名線でそろそろ汽車が来る頃だから1時頃だとかがわかったのである。深名線を走っていた列車のパネル写真もあった。ロータリー車、ラッセル車、ディーゼル車、蒸気機関車などなつかしの車両である。 レールバスはチンチン電車みたいに運転士の横で前方の景色眺めることができて楽しかった記憶がある。 蒸気機関車も日に何便か走っていた。後にSLブームが起きたが、乗りごこちとしては、蒸気機関車の発車時のガタンとする衝撃が嫌だった。
 写真は旧深名線資料室の展示物



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文学の香り 鷹泊小学校グラウンド跡に歌碑

2008年02月12日 | Weblog
思い出から現実に戻って、さらに周囲を見渡すと、北西方向(昔のグラウンドを野球場に例えると右翼スタンドの位置)に石碑があった。いつ頃建立されたのだろうか。青嵐、鳥巣、雨秋といった3人の鷹泊出身歌人の郷土俳句が彫り込まれていた。歌碑のどちらが表でどちらが裏かは定かでないが、反対側には鷹泊の歴史が記されていた。 3人のうちの1人、青嵐というのは、鷹泊小中学校で教鞭をとった細○先生の俳号だ。 「霧消ゆや 郭公 森を移り行く」 と詠んであるが、戦後間もない頃の鷹泊を詠んだ句なのだろうか。自然豊かな鷹泊に、文学の香りを感じた。 
写真はグラウンド跡の鷹泊3歌人の歌碑
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鷹泊小学校 式歌の思い出 

2008年02月08日 | Weblog
校歌ができる前までは、行事の時に「栄えゆく」という式歌が歌われていた。よく歌う機会があったので覚えているが、これは何の歌だったのだろう。がんばって歌詞を思い出してみた。意味もよくわからず歌っていたので漢字のあてかたが不明な部分もある。
1、栄えゆく あまつみそらの光をあびて 集えるわれらの心はおどる いざやわが友われらがみとたま 鍛えみがかん いざいざともに へいわ平和日本の誇りとなるため
2、東海に とわに平和の使命をうけて のびゆくわれらの心は躍る いざやわが友われらがもとたま 強く正しく いざいざともに やまとしまねの誇りとなるため
ネットなどでいろいろ調べたが何の歌か結局わからなかったが、歌詞は戦前っぽい感じ。昔の先生に聞かなければわからない。この歌を思い起こすと、式の最中の宮○先生のキリッとした姿勢が目に浮かぶ。当時は少しこわい印象だったが、本当に先生らしい先生だった。

コメント (3)
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