鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

堤防から鷹泊の街を眺めて思ったこと

2013年02月27日 | Weblog

写真は中广から堤防まで続く細道を、堤防側から見たもの。
せっかくだから、元の市街を歩いてみると、市街の変貌にあらためて驚く。櫛抜け以上にまばらな家並みである。中广から堤防へ続く道を通り、堤防を歩いてみた。そこから旧市街地方向を見ると、秋の田舎の風景が広がっていた。刈り取りの終わった水田の隣にはとソバと思われる作物の畑があり、コントラストを示している。何といっても、お寺があった部分の空間が目立つ。
昔はこの堤防のすぐ奥にゴミ捨て場があった。今はゴミ捨て場ではなくなっているようだが、鷹泊地区にもゴミ収集車は来ているのだろうか。昔は当然自宅前で焼くか、リヤカーでゴミ捨て場まで運んだ。
堤防への細い道と国道との分岐点にある家にはきれいな花が咲いていた。

写真上は堤防から中广方向を見たもの
写真下は堤防から上广方向を見たもの

リフレッシュプラザ鷹泊を後にして

2013年02月25日 | Weblog

鷹泊の旧市街地は、整備された国道275号線が貫いている。昔の未舗装道路(この頃も国道だったのかな)の面影はないほど車にとっては走行しやすい。しかし、なんといっても家がない。平成4年の航空写真で、この時の市街地を見てみると、まだまだ家が多かったのがわかる。

写真は、以前アップした航空写真の部分写真
今は深川市鷹泊という住居表示になるが、昭和37年5月までは雨竜郡多度志村字鷹泊で、以後昭和45年までは雨竜郡多度志町字鷹泊であった。昭和45年に、鷹泊を含めた多度志町が深川市に編入されている。
昨年(平成24年)は昭和38年深川市が誕生してからの市制施行50年(開村120年)の節目とのこと。
鷹泊は、多度志地区の一部として、村から町、さらには市に上り詰めた形にはなるが、皮肉なことに逆に過疎化が進行し、人がいなくなってしまった。

写真はリフレッシュプラザ鷹泊から、南の方向をみたもの。

旧鷹泊小学校の思い出は門柱に

2013年02月22日 | Weblog



旧鷹泊小中学校跡にできたリフレッシュプラザ鷹泊であるが、平成9年3月閉校と書かれた門柱が残っていた。もう片方の門柱には、開校80周年記念協賛会贈と記されていた。
昔の木製の門柱とは違うが、校庭に雪が残った中、小学1年生でランドセルを背負って、校門をくぐった日を思い出す。 
計算すると平成14年(2002年)まで学校が残っていれば節目の記念すべき100周年を達成できたことになる。あと5年で惜しくも閉校になったのは至極残念である。


極寒の鷹泊でも学校は暖かだった

2013年02月20日 | Weblog
 
鷹泊小学校開校80周年記念誌「きずな」(昭和57年発行)の表紙には、全生徒と教職員がプールの前で写真に写っている。記念誌によると学校にプールが出来たのは昭和50年とある。その写真を見ていて思い出した。
その昔、「小使いさん」と呼ばれた方(今は用務員さんと云わないとまずいみたいであるが)は住み込みで、学校にいてくれた。校舎の一番南端の部分だった。
 元旦に「書き初め」のために全校生徒が登校した年もあった。極寒の鷹泊で、冬休みに入って数日経った校舎は冷え切っていただろうが、小使いさんが生徒の来る前に各教室に火を付けていてくれて、暖かかったのを思い出す。

写真は泊小学校開校80周年記念誌「きずな」(昭和57年発行)の表紙

古い校舎の思い出 非常出口その2

2013年02月18日 | Weblog

旧鷹泊小中学校には、図書室からの非常出口のほかにもう1カ所非常口があった。正面玄関の突き当たりに、トイレがあったが、あの当時は、男女別になっておらず、おまけに職員も共用であった。今では信じられないようなデリカシーのない構造であった。当時はトイレとはいわず、普通に便所といっていた。御不浄と云っていた女の先生もいた。そのトイレには非常出口があり、そこからは学校の裏山に登って行けた。
話題が変な方に行ってしまったので、きれいな思い出を書いてみる。
半世紀前、古い校舎ではあったが、花好きのK校長が各教室の窓下のグラウンド側に花壇設置して管理されてからはずっときれいな花が毎年咲いていた。生徒の自分がいじった記憶はないので、校長先生が一人でがんばっていたのかなと思う。

写真は記念誌から転載した旧鷹泊小中学校

あの時代の図書室と技術室の思い出

2013年02月14日 | Weblog

写真はリフレッシュプラザ鷹泊
今回も、もう少し昔の小中学校をなつかしんでみる。
昔の鷹泊小中学校の職員室に接して、図書室があった。古い図書が棚に並んでいたが、本のほかにレコードが置いてあったのを思い出す。レコードは、運動会の時には大活躍したが、音楽の授業や学芸会にも当然ながら使われていた。30年代初めは、手回しで動く蓄音機だったが、そのうちに電気によって動くレコードプレーヤーに変わった。電気が使用できるようになってから間もない時期でもあり、 
電化製品の進歩は著しかった。昭和34年だったか、学校にテープレコーダーが導入され、初めて再生された自分の声を聞いてびっくりした。
さて、図書室の非常出口から上靴のままで外に出るのが何となくスリルがあって面白かった。見つかると当然お目玉だった。いつの時代も同じと思う。
その外側に物置風の小屋があった。中学校での技術家庭の授業で、その小屋の中で、椅子造りをした。木材をノコで切り、組み立てて、塗装するという工程で、椅子が完成した。大人が見ると下手な工芸品に見えたに違いないが、完成品を自宅に持ち帰り、妙に悦に入ったこともあった。

古い写真からの連想 職員室と図書室 

2013年02月12日 | Weblog
リフレッシュプラザ鷹泊前にあるパークゴルフ場

昔の学校の写真からの連想の続き。

体育館が左(南)にあって、中央には職員室、図書室があった。9年間も同じ学校で学ぶと、学校の隅々までが懐かしく思い出される。
当時9学年で教員数は校長先生を含め、12-13人だったと思う。多度志や深川から通勤されていた先生もいたが、深川へ通学する高校生で満員の深名線であったが、高校生とは逆方向の通勤だったので、混雑の面でいうと楽だったのかなと思う。
職員室の中は、校長先生を中心に、コの字型に机が配置され、右手の入り口の正面にガリ版の謄写機が置いてあった。今はパソコン、ワープロで簡単に印刷もできる時代だが、当時は、教材を自分でガリ版の謄写機を使って作製する時代だった。もちろん、業者が作製した試験問題も混じってはいたが。
そのガリ版での印刷を生徒にもさせてもらえる機会があったが、謄写機のインクで手を真っ黒にしながら、印刷を楽しんだものだった。

 

旧鷹泊小中学校にあった特別教室のこと

2013年02月08日 | Weblog

写真はリフレッシュプラザ鷹泊の前にあるパークゴルフ場
さて、体育館のことを書いていて、昔の体育館の写真を見なおすと、隣にあった特別教室のことを思い出した。
その昔、音楽授業に必須のピアノは、小学校1年生の教室に固定されていたので、音楽の授業は各学年ともに、その教室に移動して行っていた。小学校高学年と1年生とでは、体格も違うので、椅子机とも小学1年生用ではサイズの違いが気になった記憶がある。
音楽を教える先生も、音楽が専門のN先生が赴任してからは、N先生が常に全学年の音楽を教えていたと思う。
昭和38年に特別教室(音楽教室)が新築されてからは、こちらで音楽の授業を受けるようになった。体育館の横にあった控え室から通路があって特別教室に行けた。

旧鷹泊小中学校校舎の一部拡大した写真

体育館の思い出 開校50周年のステージ幕

2013年02月06日 | Weblog

写真はリフレッシュプラザ鷹泊前にあるパークゴルフ場

写真は80周年記念誌(昭和57年)から転載した体育館の写真。この時の校舎は新校舎

体育館のステージには、立派なステージ幕(正確には緞帳というようであるが)があったのを憶えている。
鷹泊小学校開校50周年と書いてあったのか60周年(昭和37年にあたる)と書いてあったのか、記憶が定かではないが昭和30年代早々に既にあったということで、50周年(昭和27年にあたる)に対してのPTAからの寄贈だったと思う。(29年に体育館が建てられているので50周年の時には体育館はなかった。)
学芸会は秋の農繁期後に開催された。生徒、親共々にとっての楽しい行事だった。学芸会での各学年の出し物の前後で幕が開閉することが、よりいっそう緊張感をかもし出した。 劇にしても合唱、合奏にしても幕が開くまでに、手早く体制を整えるわけであるが、幕が開いたときの緊張感は心地よいものであった。
昭和49年に新校舎が出来てからも、体育館は閉校まで使われていた。30年代に使用されていた昔のステージ幕も、平成9年の閉校まで、ずっと残っていたのだろうか。

記事のタイトルを入力してください(必須)昭和30年代の校舎の写真からの体育館と宿直室の思い出

2013年02月04日 | Weblog
昭和30年代の校舎の写真からの体育館と宿直室の思い出



写真はパークゴルフ場と鷹泊小学校記念誌から転載した当時の体育館
昭和30年代、校舎は既に古かったが、体育館は新築されたばかりで、立派だった。古い校舎との連結部にあった鉄製の扉を開けると、更に内側に木製の扉があった。一年中、子供達は思い切り体育館内を走り回ったものだった。しかし中には乱暴にもドアを蹴って壊した輩もいた。
写真では体育館の左に見えるが、校舎の一番南端に宿直室があった。先生が宿直に寝泊まりする場所であるが、その畳の部屋に入った記憶がある。何で入ったのだろう と今考えてみた。そうすると、鼻出血の時に処置してもらったことを思い出した。そのスペースは保健室の代わりにも用いられていた。
しかし、あの広い校舎に一人で当直は怖かったのでないかなと思う。