鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

 最終章:ふるさと鷹泊への応援歌

2024年06月04日 | Weblog

写真は橋から見た雨竜川と浅羽山

有名な観光地へ行くのもいいけれど、ふるさと散策も悪くない。この思いで、何回か鷹泊を訪れてはブログを書いている。(最初は2007年11月22日)

誰でも小さい頃の思い出を振り返っては「なつかしい」と感じると思う。人それぞれ思うところに違いはあっても、自分の育ったふるさとを懐かしむ思いは変わらないはずだ。

昭和30年代に鷹泊で小学生、中学生の時を過ごしたが、鷹泊は素晴らしい場所だったとあらためて思う。あの頃は友達と連れ立って、鷹泊の東西南北の端から端まで行き尽くしたようにも思っている。

ここ数年のクマ出没騒動さえなければ、思い出深いその端っこ(二号沢、三号沢、旭団体、ペンケ神社跡、御料の沢、幌加内峠等)へ行ってみたかったという思いは残る。

しかし、今の鷹泊の現地に立つことができて当時を懐かしめただけでも、今回の鷹泊紀行で満足感を得られ良かったと思う。

機会があれば、また鷹泊を訪れてみたいと思っています。ほぼ半年にわたってのブログを見ていただいた皆様にお礼申し上げます。

 

今回も最後に昭和30年代の運動会で高らかに歌った鷹泊小学校の応援歌を載せます。

応援歌1番

♪ 浅羽の山の峰かすみ 雨竜の流れ悠々と

巡りて絶えぬあの意気で 巌に泊まる白鷹の

名をこそあげん晴れの場所 ふるえやふるえ我が健児 ♪

鷹泊 頑張れ!

思い出深い旧鷹泊小中学校校舎の写真を掲載します。その校舎があった場所には、リフレッシュプラザ鷹泊が建っています。

昭和30年代の学校校舎の写真(昭和48年撮影。校舎は昭和50年4月解体。鷹泊入植120年記念誌から転載)。

二代目の校舎(昭和49年落成、平成9年閉校。 鷹泊小学校開校80周年記念誌から転載)

 

 

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数奇な歴史を刻んで、栄枯盛衰を繰り返す鷹泊。

2024年05月31日 | Weblog

 

突き当りは国道275号線。正面奥にリフレッシュプラザ鷹泊、左奥は鷹泊神社。

数年前に上面が舗装された堤防。右手の鷹泊神社の前を車が幌加内方向へ向かって走行中。

 

目的地の鷹泊ダムを見終えて、名残惜しいが帰路についた。鷹泊橋まで戻ってきて、堤防から学校跡を眺める。

鷹泊ダムという財産はあるが、人口が往時に比べ激減しこの先どうなるのだろうと危惧されるふるさと鷹泊。

4月5日のこのブログでとりあげた『河野順吉伝』に書かれていた鷹泊に関する記載を再掲してみる。

「鷹泊は数奇な歴史を刻んできた、と言っていい。乱高下するように大きく波打ち栄枯盛衰を繰り返す土地であった。

 ときに大資本・王子製紙の山林を有し、造林・切り出しで栄え、砂金掘りで一世を風びし、雨竜川のイカダ流しの事業でも隆盛した。そして、ダム工事……。栄華に酔い、衰にうつむく――。鷹泊はそんなときを重ねた。」

この記事の記述は、第三者的視点で、鷹泊の歴史を美文調子で見事に表現していると思う。

記憶に残っている昭和30年代には、すでに砂金の時代は終わっていた。あの当時、鷹泊橋の下流で砂金とりをしている方を見かけたことはある。富岡商店へ採れた砂金を売りにきていたた人を見たこともある。林業も終末期(外国から安い木材が輸入)を迎えていた。でも昭和30年代には、営林署の職員住宅は下鷹にあったし、造林のために木の苗を育てる苗圃も存在していた。

ともかく時代の流れで、人が住まなくなったらどうしようもない。

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鷹泊自然公園へ寄ってみたかったが、今回は無理はしなかった。

2024年05月27日 | Weblog

この坂道を上っていったところに鷹泊自然公園がある。

2016年に立ち寄ったが、その時はなかなかの場所で、鷹泊にもこんな場所があったんだと感激した。(2016年10月7日の当ブログに記載)昭和30年代の鷹泊在住時には、その存在を知らなかった。そこに建てられている雨竜川総合開発記念碑には昭和41年9月15日建立と書かれてあったので、それより先に鷹泊自然公園はできていたと思われる。

クマの恐怖で今回はスルーせざるを得なかった。

ダム湖の眺望がすばらしい公園であり、クマの脅威さえなければ、キャンプ地としても最高なのだが。

世の中は何が起こるかわからない。なにかの拍子にブレークするかも。

写真は2016年8月撮影の自然公園から見たダム湖。

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鷹泊ダムはなんといっても遠足の思い出が詰まった場所。

2024年05月24日 | Weblog

鷹泊ダムに到着。鷹泊ダムは1953年昭和28年に完成しているが、小学校1年生から中学3年生までのまさに昭和30年代の毎年の遠足で行った思い出深い場所である。 小学1年から中学3年まで。遠足の日には、校庭に各学年ごとに整列して、いざ出発進行ということで、ダムに向かって歩を進めた。途中ヌップに住んでいる級友の家の横を通りかかって、ここに住んでいるのなら、学校へ集まらずに直接ダムへ行くといいのではと思ったりもした。学校からダムまでは1里とされていて区切りのいい距離だったし、遠足に適度な距離だったと思う。1里(3.9km)の距離は1時間で歩けることを体感できた。今どき、距離表現で1里などという人はいないだろうが。

できて間もないできたての鷹泊ダムを体験でき、ラッキーだった。

昔と変わらない鷹泊ダムの姿を見ると、ホッとする。

昔の遠足の時には、ダム堤体の上の通路は通行制限がなく、対岸で弁当を広げ楽しい時間を過ごしたものだが、今はダム本体にも近づいてはいけないことになっている。

あれから何年経っただろう。60年以上経っているのだと、自分の歴史とかぶせてしまう。

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ペンケ神社は昭和30年代の楽しい思い出を作ってくれた場所だった。

2024年05月20日 | Weblog

ペンケへは、昭和48年にペンケとヌップとを結ぶ協栄橋が架橋されたので、簡単に行けるようになっている。それ以前の道であった幌加内方面への国道から分岐した鷹泊ヌップ線を利用していってみたかった。あの道は、友達と自転車をひっしに漕いでペンケ神社のお祭りに通った今となってはなつかしい道である。

ペンケ神社のお祭りに毎年のようにでかけた。その神社も、人口減がそれほどでもなかった昭和48年に、鷹泊の御嶽神社との合祀という形でペンケからなくなっている。

昭和30年代にペンケ神社のお祭りを楽しめてラッキーだったと思わざるを得ない。

文献によると、ペンケには明治29年入植が開始され,水田化も早かった。砂金掘りは現在の鷹泊ダム付近のペンケの沢・パンケの沢などで行われ,一時はそこに喜楽町ができたとも伝えられている。明治42年雨竜川神社が建立され,砂金関係者や王子製紙関係者などが崇敬していたとある。

そのような繁栄の歴史がペンケにはあったとのこと。

鷹泊入植120年記念誌に記載されている昭和40年頃のペンケ案内図

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鷹泊ダムへ行く途中にペンケにも立ち寄る予定であったが断念。

2024年05月17日 | Weblog

小ヌップ橋、大ヌップ橋を渡り、ダム方向へ車を走らせた。

大ヌップ橋付近で車を止めて周囲の景色を楽しんだ。遠くの浅羽山もきれいに見えた。

最近は札幌を始め、北海道各地でクマ出没のニュースが多い。

今回は深川市のクマ出没情報をしっかり確認していった。鷹泊関連では、ここ数年は、ダム周辺や鷹泊自然公園、ペンケ等でヒグマの目撃情報がある。令和5年5月14日にはペンケ橋でヒグマが目撃されている。ともかく茂みには気をつけて行動しなければと肝に銘じてでかけた。

ところでペンケ橋とはどこにある橋なのだろう。調べると、平成17年(2005年)にできたヌップとペンケをつなぐ協栄橋ではなく、今は通れなくなっている市道鷹泊ペンケ線にある橋のようであった。昔、ペンケ神社があった付近かなと思う。ペンケ神社といえば、子供の頃の遠足で満開の桜を見て感激した記憶がずっと残っている。神社はなくなっても、そこの満開の桜をもう一度見てみたいと思っていたが、クマが出るようでもあり全くあきらめた。

途中、道道693号線(鷹泊鷹泊停車場線)を右折してペンケへ行こうとしたが、協栄橋の手前で、2台の車がいて何やらおしゃべりをたのしんでいるようであった。1車線の道であり、どけてくれともいえず今回はペンケへは行くのは断念した。

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ダムをめざして道道693線を進行。

2024年05月13日 | Weblog

道端の田畑の風景は11月で、刈り入れも済んだ後でもあり水田なのかソバ畑なのかわからない。

この写真は竜水地区の田畑である。ソバ畑だと思うが、作つけを止めてしまっているのかもしれない。

昭和30年代は荒れ地を整備して水田を造る動きが活発だった。竜水・ヌップ地域は、山に近い方でも造田が進められていた。しかしあの頃の米はまずかった。等級に入らない、いわゆるくず米に選別された米を食べていた記憶もある。今だと北海道米はおいしいのだが。せっかく水田を増やして、米づくりにはげんでいても、国の減反政策で一気に米作がだめになり、ソバに転作せざるを得なくなった。さらにその後の人口減で、この先どうなるのだろう。

一度鷹泊橋付近まで戻り、道道693号線(鷹泊鷹泊停車場線)をダムへ向かうことにした。

下の写真は鷹泊橋を渡った付近。正面奥がダム方向へ向かう道。

発電所職員の公宅が4軒ほどあった場所を通りかかった。今は廃墟となり、土台部分のコンクリートだけが残っている。級友が住んでいたのでよく遊びに来た。川の氾濫を考えて土台が高い家屋だった。おそらく昭和30年の川の氾濫の時にも大丈夫だったと思う。

昔を知らぬ人が見ても気づかないと思われる、廃墟。

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今更ながら、ヌップと竜水の境界が判明。

2024年05月10日 | Weblog

以前のブログにも書いたが、子供の時から疑問に思っていたのが、竜水とヌップ地域の関係である。

最近の国土地理院の地図では川向う全体を竜水と表示している。

昔の国土地理院地図には同じ場所をヌップホロマップと表示していた。

しかしながら、昭和40年発行の多度志町史の人口統計では、竜水とヌップの部落別戸数、人口はそれぞれ分けて記載されている。

町の文書に記載されているということは、川向うの竜水とヌップは別の地域であって、竜水とヌップの境界がどこかにあるということになる。

その当時はなんとなく、大ヌップ川あたりを竜水とヌップの境目にしているのかなと思っていた。

最近、農水省全国集落一覧というのがあるのを発見した。これによると鷹泊は5区域(鷹泊駅前・鷹泊・ペンケ・竜水・ヌップ)に分けられている。鷹泊駅前という表現はなつかしいが、今や死語である。

図の赤線の境界よりも南側が竜水、北側がヌップということになっている。

竜水とヌップの境界は赤でしっかり区別されていた。大ヌップ川付近であるが、川で区分はされていなかった。

大ヌップ川かなと思っていたので、ほぼ正解だった。

今は人口激減で区別すること自体が無意味ではあるが、長年の懸案事項が解決できて胸のつかえがとれた。竜水やヌップに住んでいた方は、そんなことは知っていたということかもしれないが。

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竜水・ヌップ地区も田畑はあれど、人家は少なく寂しい現状。

2024年05月06日 | Weblog

写真は永井山付近から鷹泊橋方向を写したもの。左手の家は無人と思われたが、右手の家の前には農機具が置いてあったので、居住されていると思われた。

永井山の真下にあった永井さんの家も数年前に取り壊され、この辺りの雰囲気が大きく変わっている。

近くのヌップ墓地も、墓を移転した方が多いのか、かなり小規模になっている。墓地周囲にまで笹が生い茂っているので、こんな所ですらクマの脅威を感じる世の中になってしまったのが残念である。親戚のお墓はあるが、落ち着いて墓参りもできない。

写真上はヌップ墓地

写真下は竜水会館があったあたりから南方向を撮影したが逆光でわかりづらい。信じられないが、数年前にこのあたりでクマが出たとのこと。

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 昭和30年台にスキーを楽しんだ永井山方向へ。

2024年04月30日 | Weblog

永井山方向とダム方向へ行った回数を比べてみると、ダムには遠足で毎年1回は訪れたが永井山へはスキーをしにいったので圧倒的に回数が多い。

写真は昔、竜水会館だあったあたりから、正面奥の永井山を撮影したもの。

私の記憶では、昭和30年台には永井山ではなくながやまといっていたはず。しかし、鷹泊小学校開校80周年記念誌には永井山と記載されているので、このブログでもそのように記載しています。

途中、竜水会館があったところを通過。10年ほど前には普通の住宅が建っていたが、今は何もない。

冬はスキーによく行った山であるが、スロープ手前には木々が生い茂り、景色は大きく変わっている。木々の生長は早い。10年単位でみるとはっきりする。

今回、雪のない時期に訪れたが、雪の時期でも木々に邪魔されてゲレンデまでは歩いてたどりつけない感じだった。スキーを担いでゲレンデまで登っていったあの時代がなつかしい。永井山スロープの左手前にあった初心者用の小山も低学年のときは利用したが、ほどなく斜面に水田が造られてスキーには適さない状態になっている。

昔、スキーをした小山。斜面には水田が造成されている。

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