鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

雨竜川には学校公認の水泳場があった

2008年03月31日 | Weblog
竜水地域から鷹泊橋を渡って、堤防のある所まで戻って来た。鷹泊の母なる川、雨竜川は、鷹泊小学校校歌にも ♪雨竜の川のせせらぎに 花開く里 豊かなり♪ とあるし、応援歌には ♪雨竜の流れ 悠々と♪ とある。
プールのない時代、雨竜川の4カ所が夏休みに泳いでもいい水泳場に指定されていた。 一番上流の第一水泳場の近くには初夏のウグイの産卵期になり浅瀬に押し寄せ、子供達は魚釣りを楽しんだ。 赤腹といって、銀白色のウグイのお腹が赤くなっていた。この日は水かさが増していていたのでずいぶん大きな川のような感じだった。
写真は鷹泊橋から雨竜川上流をみる

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自然豊かな鷹泊 遠く浅羽山を望んで

2008年03月28日 | Weblog
竜水の一番南西部に立ってみた。ここまでは道は細いながらも舗装されていたが、この先細い道はあるものの未舗装だった。昔は久◯さん、佐◯さんのあった辺りの奥で周囲はすべて水田だった地域だ。遠くに浅羽山が見える。今、手前の畑には何を栽培しているかは不明だが、水田ではなく畑になっていた。昭和20年代から30年代、水田造成が盛んで原野は水田に変わっていった。 野山を駆け巡っていた子供にとっては野の花を摘んだり、小川で魚をすくったり遊び場として自然の原野のままのほうが良かった気がするがそれは無理というもの。 
数十年を経て鷹泊の今の姿をみると、過疎化で再び自然に帰りつつあるようにも思えた。水田が畑になり、もしこのまま過疎化が進行すれば、荒れ野になり、原野に戻る。そんなことを考えた
写真は竜水南西部から見渡した北西方向の畑 遠くには浅羽山
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竜水にあった金比羅神社は空しく廃墟になっていた

2008年03月26日 | Weblog
昔、竜水会館があった付近を曲がって南へ行ってみた。道は舗装されているが、車一台が通れる程度の道幅だ。周囲の農家も昔の半分程度に思えた。雨竜川の川沿い近くに金比羅神社があったのを思い出していってみた。その神社でも祭りには子供相撲大会が開かれた。祠の前には上で飛び跳ねると音の響く洞もあった。丁度、第三水泳場の向かいにあたる場所だ。ところがやはり残念ながら神社は消滅していた。それどころか、神社跡には、罰当たりにも廃車が不法投棄されて放置されていた。  
写真は金比羅神社跡に不法投棄された車
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スキーの盛んだった鷹泊 永井山の麓にて

2008年03月24日 | Weblog
厳密にいうと明治時代に入植した所も開拓であるが、昭和30年頃は竜水、ヌップの一部を開拓と称し、開拓の◯◯さん宅とかの呼び方をしていた。戦後入植した所をいっていたのではないかと思うがよくわからない。さて、写真は永井山のすぐ下のT字路付近。右手はいわゆる開拓の細◯さん、天◯さん、左に行けば中◯さん、土◯さん、荒◯さんの家が30年代にはあった。今、周囲を見渡すと、このあたりではブドウを栽培していた。永井山をスキー場として利用していた時は、ここからスキーをかついで登ったが、数十年経過した今はススキが生い茂った茂みの奥には白樺の木が背高く密生して、とてもここから登れるとは思えない。月日の流れを感じた。スキー場は消滅したと思われる。あの当時、この山の中腹をブルトーザーで整地して、ブルが登れない傾斜地は教職員と生徒がのこやおのを持って木を伐ったりして斜面を整備してスキー場を完成させた。当然リフトはなく、かついで登り、帰りは市街地まで滑走して帰宅した。冬は車が走らない時代だったから道路もスキーですいすいであった。ともかく子供が多くスキーの盛んな時代だった。 
写真は永井山の登り口付近のT字路
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鷹泊 時代の流れはまさに光陰矢の如し

2008年03月21日 | Weblog
鷹泊ダムは28年完成だが、鷹泊全域にいつ電気が灯ったかについては30年頃だと思う。初めて電気がついた時の感激、感激は一入だった。石油ランプの薄暗い灯火から裸電球60Wあるいは100Wへの明るい感動的な変化だった。さらには蛍光灯の時代になった。蛍光灯を点けるには、ヒモを少し長めにひっぱってから離すというテクニックを要し、そして実際灯るまで若干時間を要した。当時はそのことから少々鈍い人を蛍光灯と称した。若い世代の方には信じられないだろうが、30年頃やっと電気が灯ったのである。
学校にあった蓄音機 にしてもグラインドハンドルをグルグル回してからレコードを載せて動かした時代だった。よくテレビ時代の幕開けとしてはプロレス力道山の活躍、皇太子御成婚などのテレビ放送が有名であるが、毎日のテレビ番組もテレビのある数軒のお宅へ集合して見た。 商店とかさらには校長先生のお宅まで子供パワーは押し掛けた。数年経つと鷹泊でもテレビをつける家が増えたのでその現象もなくなった。

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鷹泊ダム奥の御料沢には熊がいた 「熊肉」は美味しくなかった

2008年03月19日 | Weblog
左奥に見える森は御料沢といわれる場所だ。ダム湖を迂回するように御料沢への道が奥へ奥へと続いている。この道へは当時、営林署の許可がなければ入れなかったが今もきっと通るには許可が必要と思う。その御料沢で熊を仕留めた熊打ち名人がいた。たまたまその熊肉のお裾分けにあずかったが、おいしかったという記憶はない。昭和30年当時の鷹泊では肉など食べる機会は少なく、お正月にやっと豚肉を口にできる程度だったのでいいタンパク源のはずだったが、固くてまずかった印象が残っている。また熊の脂あぶらは火傷に効くといって貰ったものの、使う機会がなく捨ててしまった。今となってはもったいなかった。本当に効くかどうか一度は使ってみたかったなどと当時の思い出にひたりながらも自然公園を後にした。
鷹泊橋まで戻り、今度は方向を変えて、竜水地区の南西部をめぐることとした。 
写真は誰もいない鷹泊自然公園

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鷹泊自然公園の雨竜川総合開発記念碑

2008年03月17日 | Weblog
鷹泊自然公園には大きくて目立つ雨竜川総合開発記念碑が立っていた。 北海道知事◯村◯吾書 昭和41年9月15日との記述がある。雨竜川総合開発は国の河川総合開発事業及び中小水力電源開発促進の一環として電源開発を行うことを基本に、推進された事業とある。鷹泊発電所はその一環として建設され、8つある道営発電所の第一号として完成したそうだ。第一号とは知らなかった。鷹泊関係者の一人として鷹泊ダムをより誇らしく思った。
学校の遠足では、いつもダムの上の堤を渡って対岸まで行き、そこで楽しくお弁当をひろげて食べていたこともあり、ダムの手前にこのような公園スペースがいつ頃できていたのか知らなかった。このような石碑があったのも今回の探訪まで知らなかった。
写真は鷹泊自然公園にある雨竜川総合開発記念碑
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ダム湖が美しい鷹泊自然公園に立って

2008年03月14日 | Weblog
ダムの直前で道を左折して少し登ったところに鷹泊自然公園があった。ダム湖を見張らすことのでき、眺望はすばらしい。 昔はダムの堤の上を渡って対岸からダム湖を眺めたものだが、この自然公園からの方が眺めはいい感じだ。
その昔、ダム管理の職員の方のポンポン蒸気船に乗せてもらい、ダム湖を一巡りしたことがあった。ずいぶんと奥が広々となっていたのを思い出す。ダム湖は岸から見てもすばらしいが、船からは自然に包まれ、静寂なダム湖をより堪能でき、感激ものであった。
自然公園にはバーベキューができると思われるスペースもあった。宿泊キャンプができるのかは不明だが、鷹泊湖水まつりが毎年開かれて賑わうらしい。このダム湖を観光資源としてなんとか活用してもらいたいものだ。
写真はダム湖が美しい鷹泊自然公園

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鷹泊ダムは50年の時を経ても昔のままの姿だった

2008年03月12日 | Weblog
ペンケから協栄橋を渡って引き返し、道道693号線に戻って、少し走って鷹泊ダムに到着した。昭和28年竣工の鷹泊ダムは五つの水門のうち真ん中の一つが開けられていて勢いよく放水中だった。50年前に見た力強いダムの姿は昔とまったく変わっていなかった。昔は遠足の時は堤の上を通って対岸に渡り、そこの見晴らしのいい所で休憩、食事というのが常であった。当時のようにダムの堤の上を歩いてみたいと思ったが、付近にある看板に部外者立ち入り禁止とある。部外者であることを認めざるを得ないので、残念ながら、堤を渡っての思い出の場所には行けなかった。この写真を撮ったあたりに水道蛇口があって、遠足の時にはいつも飲用したのを思い出したが、さすがにその蛇口はなかった。
写真は放水中の鷹泊ダム
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鷹泊人の必要条件

2008年03月11日 | Weblog
 ペンケ(アイヌ語で川上のあるいは上の意)があるのにパンケが鷹泊にないのはどうしてだろうか、ヌップ(アイヌ語で丘原、山の意)と竜水の境界はどこなのだろうかなどと久しぶりに当地へ来てみると疑問が生じてきた。考えてみると、市街地の南广 、下广 、中广 、上广 の境界も正確にはわからない。鷹泊駅前通りが南广 、下广の境界であるのは間違いない。下广、中广の境界は青年会館へ続く道と思うがやや自信がない。中广、上广の境界は郵便局、警察より北が上广と思うが全く自信がない。元鷹泊に住んでいた自分としても、これでは鷹泊人とはいえないのかなと思ったりした。
鷹泊人といえば、「广 泊」、 この字を鷹泊に関係している方は何の疑問もなく「たかどまり」と読むだろうし、字画の多い鷹泊と書くよりは、略して广 泊と書いていたと思う。その昔、修学旅行先で广 泊と書いたら相手が読めず、「何て読むの?ひろどまり?」と云う大人に驚いたことがある。しかし今調べると广には音読みが「ゴン」「ゲン」があり、訓読みが「まだれ」で当然タカなどはない。广 泊をたかどまりと読まないのが普通なのである。
自分に都合よく考えると、竜水・ヌップの境界がわからなくとも鷹泊人
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