鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

駐在所の前には、ミニパトカー

2015年01月30日 | Weblog
駐在所の位置は昔と同じである。駐在所の前には、ミニパトカーが止まっていた。パトカーは駐在所にあって当然だが、鷹泊で見たことに感激した。
あの当時、駐在さんは、自転車で警邏に回っていた。まだ車社会でなかったとはいえ、のどかな山村の鷹泊だった。今は、昔と変わらず事件がないとはいっても、さすがに自転車でというのは時代錯誤ということだと思う。
一方、郵便局の位置は2回変わっている。半世紀前は、駐在所の南隣にあった。一度下鷹の立花さん跡に引っ越し、今は半世紀前には吉田薬局があったあたりに存在する。
人口が激減しても、駐在所と郵便局は在り続けていることがうれしい。


写真は鷹泊派出所の前に止まっていたミニパトカー
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鷹泊の昔の市街地は、家が少なくなっていて、当時との位置関係がわかりづらかった。

2015年01月28日 | Weblog

写真中央に鷹泊で1軒の店があり、右手前の家の前にオンコの木がある。(写真再掲)
 
S君の家があった場所の北側の家の前に立派なオンコの木があった。このあたりは昔、順○さん宅だったはずで、その家先にオンコの木があったのを思い出した。そのオンコの実をつまんで食べた記憶がなつかしく蘇る。このオンコが50年前にあったのと同じオンコの木だろうか。オンコの枝は盆栽風にきれいに手入れされているが、樹が立っている場所は昔と同じだと思った。


写真下は拡大写真。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過疎化進行。市街地にあった級友の家は、なくなっていた。

2015年01月26日 | Weblog
鷹泊を訪れると、昭和30年代のいろんなことを思い出し、脈絡のないしようもないことをずらずらと書いてみたが、今回の鷹泊を訪れた目的に立ち返ってみることにした。
すなわち、探訪の目的は、二宮金次郎の銅像の壊れた手が直されているのかというのと、もう一つは、あの当時、郵便局の真向かいにあったS君の実家が、今の鷹泊に残っているか否かについてであった
それで、しっかりと旧市街地の道(国道275号線)を歩いて確認したが、やはりというか、残念ながら、残っていなかった。級友との賭には勝ったようだが、嬉しくはなかった。


写真は鷹泊の中心部(上鷹方向から中鷹方向を撮影)。右手前の家と、その奥の鷹泊に一軒だけある商店の間は、そんなに空間がないように見えるが、実際はかなり空間は広く、昔はここにS君の実家があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪雪の鷹泊、スキーには好都合であったが、それ以外はハンディを負わされていた。

2015年01月22日 | Weblog
鷹泊といえば、なんといっても名だたる豪雪の地ということである。生徒数がそれなりで、野球部も頑張っていた時代、この雪の多さは他の学校に較べてかなりのハンディであった。4月の新学期を迎えて、さあ今年は頑張ろうという時に、グラウンドはまだ雪で覆われており、かなりの出遅れを強いられていた。野球部員の仕事は、キャッチボールではなく、雪割り作業であったことを思い出す。一日でも早く土の上で練習ができるようにと、野球道具の代わりにスコップで力仕事に精を出した。


写真は、旧校舎解体時の校庭の様子。昭和50年4月ということであるが、校庭の雪の多さにびっくりする。(鷹泊小学校記念誌から転載)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄光の過去を振り返って:スポーツ活動で、北空知の雄と称された鷹泊中学校

2015年01月21日 | Weblog

写真上は周囲の紅葉がきれいな鷹泊神社境内

この時は10月で神社境内を歩いてみると、周囲の紅葉がとてもきれいであった。そして神社の階段には、どんぐりが、沢山落ちていた。半世紀前、境内には土俵があったが、その付近に大きなどんぐりの木があった。
鷹泊中学校運動部は、教師の熱血指導もあってか、野球、バレーボール、相撲、柔道は強く、北空知の雄と称された時代もあったと「ふる里鷹泊 細田先生著」に書かれてある。その時代とは、自分達よりもう少し前の世代(学年)だと思う。相撲が盛んだったのは、よく憶えている。
神社境内で行われた、大人も交えた相撲大会で、体の小さい中学生が大人に勝つ場面は、見ていて痛快であった。
相撲部とは無縁であるが、一度だけ小学生の時に、まわしを締めさせてもらったことがあった。素っ裸になって、その上に締めるので、恥ずかしかったが一生に一度の思い出になっている。なんといっても相撲は日本の国技であるから。相撲部員のまわし姿が30年代後半には見ることがなくなっていた。

写真下は鷹泊神社と神社階段に落ちていたどんぐり。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供の頃、スキーを滑った鷹泊神社を散策して。

2015年01月19日 | Weblog
神社は子供達にとっては、遊びの場所であり、お参りの場所という感覚はなかった。
神社の坂は、スキーに格好の場所であり、途中にある境内は、土俵があったこともあり、子供相撲の思い出の場所である。
神社階段の上から眺めると、札幌市の観光名所の大倉山ジャンプ台のスタート地点みたいだが、傾斜は意外ときつくなかった。昔は、この地点からスキーで滑り降りたものだとなつかしむ。下手な初心者は斜面下にある鳥居にぶつかりそうな気もするが、ぶつかって怪我をした者はいなかったと思う。


写真は、神社から下の参道を見下ろした風景。


写真は、神社の階段で、周囲の紅葉がきれいだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

校長先生に対しての、申しわけない思いで。

2015年01月15日 | Weblog
先日書いたように、練習メンバー不足で、校長先生ですら野球部の練習試合にかり出されたが、川村校長に関しては、何と言っても、花に関する思い出ということになる。校舎のあちこちに花壇を造った。生徒達は最初、あまり興味を持っていなかったものの、クラス対抗の花壇コンクールを開いたりするものだから、必然的に、花作りに誘われてしまった。その伝統はその後ずっと続いていたと思われる。
その川村校長の前任校長が安保校長先生だった。折しも時は昭和35年、60年安保(日米安全保障条約に伴う騒動)の時だった。ニュースは安保反対の集会やデモをうつしていた。それにつられて、意味も知らずに遊び感覚で、安保反対!安保反対!と腕白盛りが数人つるんで大声を出して遊んでいたことを思い出した。無知だったとはいえ、安保先生、ごめんなさい。


写真は、昔校長先生の住宅があった付近の現在。保存されている、鷹泊小学校の門柱の右手の住宅に一致する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成績は別にして、教師、生徒の一体化で、存在に意義のあった野球部

2015年01月13日 | Weblog
野球の練習試合をするためには、審判役を除いてレギュラーとそうでない者を合わせて18人は必要だが、それだけの部員数は当時の鷹泊中学校には、いなかった。その時は、男の先生の出番であった。当時の教員数は何人だったのだろうと、当時の写真を見てみると、女の先生を除くと9名である。男の先生総出で、練習試合につきあって下さった。なつかしく思い出される。



写真は昭和37年と思われる、鷹泊教職員全員の写真、鷹泊小学校記念誌から転載。男の先生がちょうど9人であり(もう一人は用務員さん)、校長先生まで野球の試合に参加された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元の校庭に立って、鷹泊中学校での野球部活動を思い出す。

2015年01月09日 | Weblog
鷹泊中学校野球部は、昭和30年代後半の自分達の時代には、かなり弱小チームになっており、中体連など他校との試合で勝った記憶がなかった。
当時野球部監督をされていた○○先生は、練習の時に、ミスをすると「ホッチャレ」とよく大声を浴びせていた。へたくそとか馬鹿野郎という意味だと思っていたが、後にホッチャレとは「北海道の方言で、産卵を目指し、川を遡上した鮭は、体は傷つき、脂が抜けきりヨレヨレになっているので、この名が付いた」ということがわかった。結局は、技量の下手さを叱責、罵倒する厳しいお言葉ということであるが、当時は意味がよくわからなかったので、そんなに叱られたと思わず、落ち込むこともなかった。
中体連野球大会で、音江中学と対戦したときに、相手チームに大きな選手がいた。それが、後に角界入りして幕内優勝もして、関脇にまで上り詰めた金剛関(前の二所ノ関親方)の中学時代であった。昨年亡くなられた。ご冥福をお祈りします。野球の試合はもちろんレベルが違い、完敗であった。


写真は、昔野球をするときには内野だった辺りの、桜が植樹されているリフレッシュプラザ鷹泊の公園。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代、鷹泊中学校での野球部の思い出

2015年01月07日 | Weblog
部活動では、あの当時は柔道部が目立っていた。やはり細田先生という指導者がいたからであろう。(部として存在していたのかは記憶にないが、相撲も指導されていた。)
柔道部員は、道着を持ちかかえて通学していた。体育館に畳を敷いて練習している光景を思い出す。畳は、普段は体育館ステージの両脇のスペースに収納されていた。使用時には、そこから1枚1枚運んで敷いていた。細田先生や宮部先生の黒帯姿を思い出す。
個人的には柔道とは無縁だったので、野球部に関する思い出が強く残っている。昭和32年には、北空知中体連で強豪校に競り勝ち優勝したこともある、伝統ある野球部であった。鷹泊ふるさと会会長の馬場さんがこの時の優勝メンバーだったとのこと。



写真上は、昔のグラウンドであった位置から、神社方向を見たもの。
写真下は、鷹泊小学校記念誌から転載した昭和46年の空から見た鷹泊小中学校。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする