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鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

盛夏、鷹泊はソバの花が満開であった。

2016年10月30日 | Weblog

砂白金のことは前回で終わりにします。

8月7日、ペンケとヌップ間の協栄橋を再び渡って鷹泊へ引き返すところで、周囲のソバ畑が一面まっ白の絨毯を敷き詰めたようにきれいだったので、車を止めてみた。

今回、あちこちにソバ畑があり、きれいな花を咲かせていた。

子供の頃の記憶では、稲作主体の鷹泊の農業であったが、昭和48年頃から稲作からの転作奨励でソバの栽培が一気に多くなったようだ。

稲作全盛期の昭和30年代、ソバの花を見た記憶はないが、枕に使うそば殻を知人からいただいたことはあったので、ヌップなどでわずかながらソバの栽培はしていたと思う。

ソバの開花時期は、7月上旬〜8月下旬で、ベストシーズンは7月下旬〜8月上旬、収穫時期は8月中旬〜9月中旬ということらしい。

前回鷹泊に来たのは9月以降だったので、収穫の済んだ農地が水稲なのか、ソバなのかわからなかったが、8月の夏の時期であれば水田なのか、ソバ畑なのかは一目瞭然である。

写真は白い花が満開のヌップのソバ畑

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昭和に入っての鷹泊地区の砂金、砂白金はどこで産出?

2016年10月28日 | Weblog

砂白金で有名な鷹泊であるが、戦時中に帝国砂白金有限会社が雨竜川を掘り尽くしたこともあり、昭和30年代には砂白金採取はほとんど過去のものとなっていた。

戦時中・戦後の鷹泊での砂白金採取のことは、実際にご自身で砂金掘りをしたことがあるという細田長知先生記述の「ふる里鷹泊 平成22年作成」にくわしい。

引用させていただくと『比較的豊富な採取場所としては、鷹泊ダム近辺の雨竜川・その支流の御料沢付近、鷹泊市街地下の雨竜川本流及びその河川敷数百メートル程、さらに鷹泊岩付近の平坦地、それに雨竜川支流大ヌップ川の川上に存在する「農夫沢」、小ヌップ川の中流にある「お寺沢」がある。』との記述がある。

鷹泊人には名前がおなじみの大ヌップ川、小ヌップ川、御料沢等で砂金が採れたと書かれている。小ヌップ川は小さい頃遊んだこともある川だ。

また『鷹泊ダム工事で掘り上げられた土砂が雨竜川の川下に堆積されたといわれる地点で、ダム工事終了後の一時期思いがけない砂金が発見され活況を呈した』とあった。

そうか、昭和30年頃に鷹沼橋の下流あたりで砂金とりをしている人を見かけたことがあったが、あれは、鷹泊ダム工事関連の砂金採取だったようだ。

 多度志町史に鷹泊の砂金に関する新聞記事「続いている白金採取 今 1匁 1万円前後」というのが載っているのを発見した。今はなくなった地方紙北海タイムスの昭和31年2月22日の新聞記事である。1匁は3.75gである。物価が当時と比べて約8倍なので、1gが2万円ということで、高いのかどうかは金相場を知らないのでわからないが、かなり高そうに思える。

今でも、鷹泊のどこかに砂白金があるのかもしれないが、コスパ(費用対効果)が悪すぎる。砂白金採取にはロマンが感じられるが、チャレンジする気にはなれない。

写真は大ヌップ橋から少し上流の大ヌップ川周囲の畑

 

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アイヌのユーカラは砂金のある場所を語っていた。

2016年10月26日 | Weblog

明治時代の鷹泊でのゴールドラッシュについて述べてきたが、砂金採取の場所は隣町幌加内の近くでもあるので、新幌加内町史をも調べてみた。

新幌加内町史には 『砂金は蛇紋岩地帯の川底に見られる。水で削られた蛇紋岩が集積してできた漂砂鉱床の中に多く見られる。ニセイパロマップ川から岡田の沢はこれに該当する場所である。蛇紋岩地帯のうち小範囲のこの山地が砂白金の発源地と思われている。雨竜川本流は水量が多く作業が容易ではない。』と多度志町史と同じ様な記載がある。

さらには、『アイヌのユーカラ(口伝え)に青色の岩石(蛇紋岩)のあるところには必ず砂金があり、特に川の寄せ場に多いと伝えられている。』と記述されていた。北海道先住民族のアイヌの人たちが明治以前に、砂金がある場所を知っていたということは興味深い。

写真はペンケ中央部から北方向を写したもの。この直線道路だけでもかなり長い。中央右奥に坊主山が見える。

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過ぎ去った鷹泊の砂白金採取のこと。

2016年10月24日 | Weblog

鷹泊の砂白金を調べているうちに、砂白金に我ながらのめり込みすぎた感がある。鷹泊で今は、砂白金は採れないと思う。すでに過去のことではあるが、鷹泊の歴史の中で脚光を浴びた砂白金のことをはずすことはできないので、もう少しこのテーマを追求してみる。

多度志町史には下記のような記載がある。

『本邦の砂白金鉱床は、北海道の神居古潭帯の蛇紋岩地帯にのみ限られ、その中でも鷹泊北方の蛇紋岩地帯をめぐる白金の漂砂鉱床(岩にふくまれていた成分が風化して細かくなり重さの違いなどによって水底に沈殿してできる鉱床をいう)は最も広く、規模の大きいことで知られている。

その分布は北部のニセイパロマップ川下流から南の岡田の沢下流部に亘る範囲、それから南に下って雨竜川本流沿いに続き、更に(幌加内町の)三耕地に至って巾千米以上にも亘る洪積地、鷹泊市街付近の沖積地までに亘る範囲がその主な地域であり、更に宇摩団体付近まで鉱区が設定されている。採集は本村の開拓以前の明治20年代にすでに始められ、太平洋戦争中は大規模に行われたために雨竜川の流れを歪曲させた程である。発源地はニセイパロマップ川下流から南の岡田の沢に亘る限られた地域らしい。』

写真はペンケから南方向、鷹泊の方角を写した。この道の先は昔、鷹泊-幌加内間の道路に繋がる。途中の左手にはペンケ神社があった。

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ペンケとありし日のゴールドラッシュ

2016年10月22日 | Weblog

今回ペンケに注目した理由は、鷹泊の歴史の中で、最盛期には、ペンケ地域に1000人を超える砂金掘りの人達が集まったという記述を眼にし、ペンケにそんなに住めるはずがないと思ったので、それを自分の目で確認するためでもあった。

明治35年頃に鷹泊の雨竜川とその右岸にある支流に砂金が発見されたことで、ペンケに1000人以上の人達(あるいは3000人とも言われている)が集まった。ペンケから坊主山の近くまで砂金掘りの人達の草小屋が連なっていたなどと、にわかには信じられないような記載であった。しかしペンケに立ってみて周囲を見渡すと、思っていた以上に広く、それだけの人達が集まっていたのは間違いでないと納得できた。

ペンケから雨竜川に沿って、上流の採取現場へでかけたのだろうか。

写真はペンケ中央部から北の方角を写している。中央やや左、はるか遠くに坊主山が映っている。

雨竜川の左岸にあたるペンケから、どこかで雨竜川を渡って右岸の採取現場へ行ったと思われる。川の対岸へ簡単に歩いて渡れたのだろうかと想像はふくらむ。

写真は鷹泊ダムのすぐ下流の位置から、ペンケの少し上流にあたる雨竜川の左岸を写したもの。木々が繁茂している。

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雨竜川とともに開けたペンケは豊かな農業の地

2016年10月20日 | Weblog

写真はペンケ地区の水田

鷹泊の歴史を調べてみると、辺鄙な山奥と思っていたペンケに対する考えを改めなければと思った

以外や鷹泊中心部とペンケとではほとんど同じ時期に開けたようで、多度志町史によると「ペンケの開拓は明治31年5月に始まり、大正4年に分村した当時はすでに一を形成していた。しかし大正15年に鉄道駅が鷹泊にできてからは圧倒的に鷹泊がにぎわうようになった」とある。

 それどころか、稲作は鷹泊地区よりもペンケ地区がだいぶ先に始まっている。「明治35年ペンケで、初めての水稲収穫があったが、鷹泊地区で水稲を作り始めたのが大正13年である。ペンケ地区での稲作は雨竜川の水を引いて行ったが、鷹泊はため池の水を利用して行っている」との記載もある。

この地に立ってみて、ペンケは雨竜川との距離が短いから水を引くことが容易なこともわかった。

ペンケは思っていた以上に広く、稲が豊かにみのっていた。

子供達の多かった昭和30年前後のペンケの戸数、人口は、昭和28年に22戸、135人。昭和36年は19戸、118人という統計記録がある。今は、見渡したところ一桁の戸数のようであった。

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ペンケ神社と桜の思い出。

2016年10月18日 | Weblog

子供時代何回もペンケ神社までは行ったが、その奥にあるペンケまではほとんど行った記憶がない。

ペンケ神社のお祭りの子供相撲は楽しかった。長い急な階段を上り詰めた所が境内で、そこに土俵があった。友人と10円、20円といった賞金目当てで自転車に乗って駆けつけ、もらったお金でお祭りの出店で何かを買うというのが楽しみだった。

学校の遠足でペンケ神社へ行った思い出もなつかしい。季節は5月末のはずと思うが遠足で行った時のペンケ神社の桜は今でも思い出す。境内は満開の桜で覆われていた。桜は日本全国どこでも見られるが、どこの桜も同じというわけではない。

数年前、あの時に見た満開の桜をもう一度見ようとしたが、行く道がなくなっていてやむなく引き返したことがある。

後でわかったことだが、昭和48年とかなり昔にペンケ神社そのものがなくなっていた。

多度志町史によると、昭和48年に鷹泊の御嶽神社がペンケの雨竜川神社を合祀するようになったと記載されている。ペンケ神社は正式には雨竜川神社(明治42年建立)といっていた。協栄橋が出来たのも同じ年の昭和48年11月とのことである。

人口減のまだ進んでいないこんな時期にすでにペンケ神社が無くなっていたとは知らなかった。

写真は誰も通らなくなって道路中央に草が生えている、昔のペンケへの道(数年前撮影)。

写真はペンケを流れる雨竜川。川幅は狭く感じる。

 

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協栄橋はペンケへ通じる道

2016年10月16日 | Weblog

写真は協栄橋の下を流れる雨竜川。橋の向こうはヌップ。

ふるさと鷹泊の中でも思い出深い場所の鷹泊ダム、ダム湖を後にして次は、協栄橋を渡った先にあるペンケへ行ってみた。(ペンケとはアイヌ語で上流の意味で、鷹泊よりも雨竜川の上流にあることを示す。)

昭和30年代、ペンケは山奥の大変辺鄙なところという印象を持っていた。クラスメート2人がペンケから通学していた。豪雪地帯の鷹泊での冬期の通学は大変だったと思う。雪が降った日には深雪の中、馬そりが先導した道を歩いて学校に通っていたのではと思う。バス通学などあり得ない時代、学校へ通うのも大変な山の奥で米作りをしている農村地区というふうに思っていた。

あの時代、車はほとんどなかったし、ブルでの道路の除雪が始まったのは昭和40年くらいだったはず。昭和30年代は、幌加内へ向かう道を途中で左折して山沿いの道を進んだ先がペンケであった。数年前にペンケへ行こうとして、道が途切れてしまっているのに気づいてびっくりした。数年その後にヌップから協栄橋を渡ってペンケへ行く経路を発見した。なるほどこの経路のほうが道路の除排雪にはいいのだと思った。

写真下はペンケ付近の地図。昔は右下の幌加内へ向かう道を左折して、ペンケへ向かった。今はヌップから協栄橋を渡って行くようになっている。

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鷹泊の歴史 「そそり立つ樹は春秋の歴史きざみて鷹泊」

2016年10月14日 | Weblog

写真上は鷹泊自然公園の樹々

表題に鷹泊小学校校歌の一節を使わせていただいた。

子供の時(昭和30年時代)は、鷹泊は農業だけの山村と思って過ごしていた。鷹泊のその昔はどのような地域だったかについては考えたこともなかった。

今年は入植120年とのことで、鷹泊入植120年を祝う会が鷹泊で開催された。

このブログでは鷹泊の産業構造の歴史を、多度志町史等を参考にして簡単に(ブログ記事としては長すぎですが)まとめてみた。

【鷹泊の歴史】

明治29年(1896年)に土佐からの開拓移民団が入地したのが開基とされているが、入植当初の鷹泊は、最初は畑の開墾と林業(伐採と造林)の地だった。

鷹泊には材木として有用な大きな樹が生い茂り、この森林を明治政府から譲り受けた王子製紙と北海道炭礦鉄道会社(北炭)の社有林があった。この土地を所有していた2社は労働者を雇って伐採した木を、雨竜川を丸太のままあるいは筏で流して、一昼夜かけて木材集積所のある砂川や江別まで運んだ。鉄道駅が鷹泊にできてからは木材の輸送は鉄道に変わった。

北炭に所属する宇野農場は社有林以外の土地を、小作人を使って開墾した。小作人による農耕は、最初は畑作だったが途中から稲作も始まり、農民は冬期には生活のために山稼ぎ(造材)にも従事した。稲作が開始されてからは、畑に代わって水田が増えはじめた。戦後の農地改革で小作人が土地を所有できるようになり、さらにこの地区の農業が発展した。

明治35年頃から、鷹泊に属する雨竜川上流で砂金、砂白金が産出されることがわかり、一時期は採掘の人達がペンケ地区に入り込み、活況をみせたが、昭和30年代にはすたれている。

林業は戦後、木材の輸入自由化の影響もあって衰退してしまい、

昭和30年代には鷹泊は農業主体の地域になっていた。

鷹泊ダム建設で賑わった時期もあったが、徐々に人口が減少し、今日に至っている。

鷹泊の歴史の流れを振り返ってみると、林業、砂金採掘、稲作のいずれにも雨竜川が深く関わっているということがわかる。

写真下は鷹泊橋付近を悠々と流れる雨竜川

 

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鷹泊は広大な面積を誇る地域である。

2016年10月11日 | Weblog

写真は鷹泊ダム湖。

鷹泊は思った以上に広大な場所である。しかしダムよりも北側は広大ではあるが簡単に足を踏み入れることはできない地域がほとんどである。雨竜川の支流も幾つかあるが比較的近い所にある御料沢川をですら、とても行きづらい。

昭和30年代に自転車遠足で一度だけ御料沢まで行ったが、御料沢より奥はまったく行ったことはなく、その先の地域が鷹泊に属することなど考えもしなかった。

しかし鷹泊の歴史を調べてみると、その先の行きづらい地域こそ、昔砂金採掘で多くの人達が行き交った場所ということがわかった。

 多度志町史によれば、昔砂金がとれたのはニセイ・パロマップ川上流、ニセイノシュチ・オマップ川中流、ニセイケシュオマップ川下流で、ニセイパロマップ川とニセイケシュオマップ川では当時(昭和40年の記述)も砂白金が産出されているとの記載がある。御料沢川や坊主の沢川よりも上流に存在するが、いずれも鷹泊に属している雨竜川の支流である。

鷹泊の面積は約115 km²であり、面積が小さい市である砂川市(79 km²)や室蘭市(81 km²)を上回っている。もちろん殆ど利用されていない山間部を含めての数値ではある。幌成(32 km²)や南多度志を含めた多度志の面積(25 km²)をはるかに上回っている広い地域である。

 

写真は鷹泊の広さがわかる国土地理院Web地図。

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