写真上は鷹泊自然公園の樹々
表題に鷹泊小学校校歌の一節を使わせていただいた。
子供の時(昭和30年時代)は、鷹泊は農業だけの山村と思って過ごしていた。鷹泊のその昔はどのような地域だったかについては考えたこともなかった。
今年は入植120年とのことで、鷹泊入植120年を祝う会が鷹泊で開催された。
このブログでは鷹泊の産業構造の歴史を、多度志町史等を参考にして簡単に(ブログ記事としては長すぎですが)まとめてみた。
【鷹泊の歴史】
明治29年(1896年)に土佐からの開拓移民団が入地したのが開基とされているが、入植当初の鷹泊は、最初は畑の開墾と林業(伐採と造林)の地だった。
鷹泊には材木として有用な大きな樹が生い茂り、この森林を明治政府から譲り受けた王子製紙と北海道炭礦鉄道会社(北炭)の社有林があった。この土地を所有していた2社は労働者を雇って伐採した木を、雨竜川を丸太のままあるいは筏で流して、一昼夜かけて木材集積所のある砂川や江別まで運んだ。鉄道駅が鷹泊にできてからは木材の輸送は鉄道に変わった。
北炭に所属する宇野農場は社有林以外の土地を、小作人を使って開墾した。小作人による農耕は、最初は畑作だったが途中から稲作も始まり、農民は冬期には生活のために山稼ぎ(造材)にも従事した。稲作が開始されてからは、畑に代わって水田が増えはじめた。戦後の農地改革で小作人が土地を所有できるようになり、さらにこの地区の農業が発展した。
明治35年頃から、鷹泊に属する雨竜川上流で砂金、砂白金が産出されることがわかり、一時期は採掘の人達がペンケ地区に入り込み、活況をみせたが、昭和30年代にはすたれている。
林業は戦後、木材の輸入自由化の影響もあって衰退してしまい、
昭和30年代には鷹泊は農業主体の地域になっていた。
鷹泊ダム建設で賑わった時期もあったが、徐々に人口が減少し、今日に至っている。
鷹泊の歴史の流れを振り返ってみると、林業、砂金採掘、稲作のいずれにも雨竜川が深く関わっているということがわかる。
写真下は鷹泊橋付近を悠々と流れる雨竜川