鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

国道275号線を通り、鷹泊とお別れ 

2013年03月18日 | Weblog

第3部最終章
鷹泊を訪れて、学校跡、駅舎跡など昔の生活空間を見ていると、いろいろ懐かしい思い出が浮かんでくる。半世紀はあっという間に過ぎてしまい、故郷鷹泊の変容も著しい。
鷹泊を思い起こすことは、どこの土地にいてもできる。しかし、今この鷹泊の地に立っていると、昔この地で生活した記憶が次から次と時間、空間を越えてめぐってくる。
今見た鷹泊から、昔を思い起こしながらいろいろ記述してみたが、書き始めたらきりがなくなってしまう感もなきにあらずで、今回のブログはここで一休止とした。結局、約5ヶ月にわたって、このブログを書いたことになる。
第1部が平成19年、第2部が平成22年、そして今回が第3部ということであった。次回がいつになるかわからないが、鷹泊にまた来る機会があったら、チャレンジして見ようと思っている。何と言ってもこのブログはリアルタイムでなく、昨年9月に鷹泊を訪れた時のことを昔の思い出と重ね合わせて、だらだらと書いているようなもので、実際は雪でおおわれているのに、秋の景色を掲載するのは心苦しい面もありました。読んで下さった方には感謝いたします。

写真は鷹泊を去っていく時に見た国道275号線の風景(鷹泊から南方向を見たもの)
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旧鷹泊駅舎は見るたびに朽ち果てつつあり

2013年03月15日 | Weblog

旧鷹泊駅舎は鷹泊を訪れた時には、はずせない場所だ。車社会ではなかった半世紀前、汽車に乗って鷹泊駅から出発あるいは到着以外の交通手段はないに等しかった。
駅舎は鉄道が廃止になった今も道の突き当たりにたたずんではいるが、昔を知っているものでなければ、ただの古い無人の物置のようなものにしか見えない。
駅舎を見ていると、煙突が新しいのに気付いた。まさかストーブが使用されているはずはないのに。おそらく、煙突は錆びやすいので施設保持の一環として新しいものに換えたのだろう。

写真は煙突の新しさが目立つ旧駅舎
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○岡産業一色になっている南广

2013年03月13日 | Weblog


写真は国道に沿った○岡産業の建物
南广まであしをのばしてみる。今、南广は○岡産業だけといった感じである。
駅前通りに面しても、国道275号線に沿っても、○岡産業関連の建物が目立っている。
南广といえば、昔は国鉄職員の官舎が駅の近くにあったので、その官舎長屋が、南广では最大勢力で、ほかにも家がたくさんあった。
昔の駅前通に面した○岡産業の入口玄関に、この事業所にはAED(自動体外式除細動器)を置いていますという表示があった。公共施設以外でAEDを置いてある事業所はまだそれほど多くないと思う。ここ○岡産業は従業員も安心して働ける職場ということである。外観も立派な事業所だ。

写真は昔の駅前広場から西方向を見たもの。

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下鷹にある花卉栽培のビニールハウス

2013年03月11日 | Weblog
写真下は中广から南の下广方向を写したものである。

写真下は南广から下广方向を写したものである。右折すると、昔の駅方向である。

昔の下广にあたる場所には、花卉栽培のビニールハウスが並んでいた。中をのぞくと、きれいな青い花が咲いていた。ここで栽培された花が都市部の人々に購入されることを思い浮かべると、うれしい限りである。





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鷹泊街中は、あまりの変貌で、家々の位置関係も不明瞭

2013年03月08日 | Weblog

この写真は中广から上广方向を写したものである。右側に見える駐在所(赤い屋根の家の手前)は、おそらく昔と同じ位置だと思われる。しかし道の左側は、どうもはっきりしない。駐在所の真向かいに消防番屋、消防車が入っていた車庫が昔はあった。左手前にあるのは、鷹泊で1軒のお店である。ここが昔の農協のあった場所にあたるのかもしれないが、どうも位置関係がはっきりしない。あまりの市街地の変貌で浦島太郎になった感じでもある。
ちょうど、JR深名線バスが通過していった。中はよく見えなかった。乗客は何人乗っているのだろうか。実際は幌加内-深川間だけの運行だが、深名線の名前はなつかしいブランド名である。
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この道はいつか来た道

2013年03月06日 | Weblog



青年会館があった道で、よく通った道である。床屋さんの前から東へ延びた道といったほうがわかりやすいかもしれない。青年会館の周りには沼地があった。板張りの青年会館の、板壁の隙間にサクラ鳥の巣を見つけたことがあった。そのヒナを取り出したりはせず、暖かく見守ったことの記憶が浮かんできた。サクラ鳥が、おなじみのムクドリのことだと知ったのは、かなり経ってからである。
昔の沼地は、稲穂が風にそよぐ水田に変わっている。昭和30年代は、稲作推進政策のためか畑地を水田に変更という流れがあった。線路の向こうの丘陵地には、農業用の水溜ができていた。深さ1メートルくらいだったが、そこで夏の暑い日には友達と泳いだこともある。
写真は青年会館横をとおって、東の苗圃方向へ続く小道
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丸太を積んであるお家があった。

2013年03月04日 | Weblog

昔の中广にあたるところに、丸太を積んであるお家があった。おまけに薪もあり、感激した。
半世紀前から、暖房の主力は、薪であったが、短期間のうちに石炭そして灯油と変わっていった。学校の暖房は、30年代はずっと、石炭暖房だった。
珍しいものを見せてもらった気がしたが、昔は、どこのお家も薪暖房であった。薪ストーブは暖房としてのほかに、煮炊きにも使われていた。
今、薪を利用しているのは観光地などと、趣味で使用している人たちだけで、ほんの一部でないだろうか。薪ストーブ時代、煙突掃除が真っ黒になり大変だった。石炭ストーブではススが薪ストーブの時ほど真っ黒ではなかったが、煙突掃除が面倒であったのは変わりない。薪割りも、結構たいへんだったことを思い出す。

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丸太を積んであるお家があった。

2013年03月04日 | Weblog

昔の中广にあたるところに、丸太を積んであるお家があった。おまけに薪もあり、感激した。
半世紀前から、暖房の主力は、薪であったが、短期間のうちに石炭そして灯油と変わっていった。学校の暖房は、30年代はずっと、石炭暖房だった。
珍しいものを見せてもらった気がしたが、昔は、どこのお家も薪暖房であった。薪ストーブは暖房としてのほかに、煮炊きにも使われていた。
今、薪を利用しているのは観光地などと、趣味で使用している人たちだけで、ほんの一部でないだろうか。薪ストーブ時代、煙突掃除が真っ黒になり大変だった。石炭ストーブではススが薪ストーブの時ほど真っ黒ではなかったが、煙突掃除が面倒であったのは変わりない。薪割りも、結構たいへんだったことを思い出す。
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鷹泊市街地の風景 

2013年03月01日 | Weblog

写真はお寺の跡
人家のないのがよくわかる。特にお寺跡は寂しい感じ。2年前にも鷹泊を訪れていたが、今の状況はその時とあまり変わっていない。でも警察駐在所はちょっと見、可愛い造りで目立っているし、郵便局も当然ながら残っている。ガソリンスタンドは、(全国的に店の数が減り、社会問題にまでなっているが)ここには、ホクレンサービスステーションがまだ?健在である。
ただ一軒残っているお店の表には、宅急便扱いの表示があった。
ともかく鷹泊にはまだ、最低限必要な施設はかろうじて残っているということだ。

写真は警察駐在所、郵便局、ホクレンサービスステーション
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