鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

大ヌップ川は竜水とヌップとの境界だろうか。

2016年09月30日 | Weblog

写真は大ヌップ橋から少し上流にあたる大ヌップ川。砂金採取ではなく、砂利採取現場が見える。

鷹泊という名前は別にして、ペンケ、ヌップと明らかにアイヌ語由来の地域名がある中で、竜水だけは違っている。名前とは別に、数年前のブログでヌップと竜水の境界はここ大ヌップ川であろうと思う記事を書いた。
昭和31年版の国土地理院の地図を見ると、川の向こうの地域はすべてヌップホロマップと記載されていて竜水という表示はない。しかし、最近の国土地理院Web地図では竜水とヌップに分けられた記載になっている。地図上の地名は、国土地理院ですべて把握しているわけでなく、地図を改訂する時に市役所とか町役場に問い合わせるらしい。ということは、役所で把握している地域名が国土地理院の記載よりも正しいといえる。

多度志町史では、昭和28年は鷹泊の川向かいの地域をまとめてヌップとしているが、昭和36年はその地域を竜水とヌップに分けている。どうやら昭和30年代に入る前後に両地域を分けたように思える。
また、幌成の対岸ウッカヤオマナイ地区に竜山小学校があった。そして、鷹泊の対岸ヌップホロマップ地区に竜水小学校があった(明治43年に特別授業場として開設、大正8年に竜水尋常小学校となっている。)との記載もある。
いうなれば、竜水はヌップホロマップ地区にあった町内会名で雨竜川の意味をおきかえた名称とのことらしい。
もう一つの疑問点、ヌップと竜水の境界に関しては大ヌップ川あたりでないかと以前から推測していたが結局正解はいまだわからない。しかし戸数が激減した今はどうでもいいというか、地域を分ける必要がないともいえる。


図は国土地理院の最近のWeb地図。
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大ヌップ川での砂金掘り体験で鷹泊を活性化。

2016年09月29日 | Weblog
 
鷹泊橋を渡って、鷹泊ダムを目指した。小ヌップ川に架かる小ヌップ橋を渡り、途中の大ヌップ川で一時停止した。
大ヌップ川は小ヌップ川よりは大きいものの、名前ほど大きな川ではない。しかし、最近砂金掘り体験でクローズアップされている。深川商工会議所が音頭をとって「鷹泊の砂金掘り体験」という催しを初め、今年の9月に第4回目が行われたとのことである。ゴールドラッシュ時代を思い起こすようなロマンあふれる催しはうれしいイベントである。
鷹泊といえば砂金。砂金といえば鷹泊という時代があったようで、鷹泊の歴史を語るに避けて通れない砂金(砂白金を含めて)である。
砂金は昔、鷹泊の雨竜川本流と雨竜川の右側支流(大ヌップ川もその一つ)で採取されたとされる。細田先生が記述された「ふる里鷹泊」にも大ヌップ川の川上に存在する「農夫沢」は比較的豊富は採取場所だったとある。
しかし昭和30年代で、すでに鷹泊での砂金採取は衰退期に入っており、砂金掘りの人をほとんど見かけなくなっていた。その当時、大ヌップ川へクラスメートと炊事遠足に行ったことがあった。川の水を使って、カレーライスを作って食べたので、(50年以上前は、今より川底に沈んでいる砂金が多かったはずと思えば)砂金の粒入りだったかもしれないと思ったりしている。

写真上は大ヌップ橋から見た大ヌップ川と写真下は大ヌップ川を示す国土地理院のWeb地図

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ヌップと鷹泊を結ぶ橋の歴史

2016年09月27日 | Weblog
昭和30年代は鷹沼橋(おうしょうばし)といっていたが、昭和49年に永久橋に変わった時から鷹泊橋に名称が変わった。
対岸のヌップ、竜水地域はその昔、沼田村に属しており、鷹泊とヌップ、竜水間は、対岸への橋がなかったので渡し船で往来していたとのこと。昭和4年に橋ができて往来が容易になったことから、両地域の結びつきがより強くなり、昭和18年にヌップ、竜水地域は沼田村から多度志村へ編入されたという経緯がある。
数年前に橋の名前が変わっていたことに気づいて驚いたが、対岸の地域は沼田ではなく、鷹泊なのだから、当然鷹沼橋ではおかしいということになる。でもつい鷹沼橋といってしまう。
子供時代の記憶にある昭和30年代の鷹沼橋は木造橋であり、木が腐食してもすぐには修理しなかったこともあるので、穴が開いて橋の下の水面が見えることもあった。しかし、馬が脚を踏み外したとか、人が誤って落ちたということはなかったはずだ。昭和35年から翌年にかけて、鷹沼橋は修理のため通行止めになったことがあった。修理中の仮橋は吊り橋で、人と自転車はその仮橋を渡ったが、揺れて超怖かった。
昭和49年12月に鷹沼橋より少し上流に永久橋に変わった鷹泊橋が完成し、今に至っている。
写真は周りに柳が目立つ鷹泊橋。4年前9月に写した写真も一緒に掲載
  
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堤防の舗装工事は、異常気象による洪水被害に対する緊急対策。

2016年09月25日 | Weblog
堤防が出来てから60年近くになるが鷹泊では、数年前に避難騒ぎはあったものの洪水は起きていないと思われる。
しかし、異常気象による大雨、川の氾濫が各地で被害をもたらしている昨今では、今まで何ともなかったから大丈夫という常識が通じなくなってきた。昨年国交省は対策を講じたが、堤防の上の舗装はその一つで、水分吸収を防ぎ堤防の崩壊を遅らせ、住民が避難するまでの時間を稼ぐという対策である。
今年8月は北海道で台風被害が相次いだが、洪水被害といえば昭和30年7月の雨竜川氾濫による洪水を思い出す。人的被害はなかったが、鷹泊市街地の大部分が床上浸水した。田畑も水をかぶり、それが昭和32年の長さ1.8kmに亘る堤防構築に繋がった。今の時代は重機を使うことで、短期間で工事完了となるが、昭和30年代は、農作業に活躍していた農耕馬が動員され、仮設のレールの上を砂利や土を入れたトロッコを引っぱっていた光景を思い出す。
写真は、今年舗装された堤防と、4年前9月に撮影した周囲に雑草が生えている昔懐かしい堤防道。
 
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雨竜川沿いの堤防はまさに今、舗装工事中。

2016年09月23日 | Weblog

写真はアスファルト舗装を終えたばかりと思われる堤防。

鷹泊市街地を護る堤防は舗装工事中であった。すなわち堤防の上の部分(天端テバというらしい)をアスファルト舗装していた。この日は日曜日だったせいか、工事車両はなかったが、ちょうど舗装工事が終了したばかりのように見えた。
災害時の避難路確保か、あるいは堤防の草刈りする人員もいなくなってきたので道の確保のためかなと思った。いずれにしても堤防ができて50年以上経っていて、今ここを舗装してどうするのだろう、以前はよく指摘された無駄な公共事業でないだろうかとこの日は軽く考えた。しかし、後日調べてみると違うことが判明した。
真相は、国交省の洪水対策だということ。
国としては、想定外の豪雨が多発していることから、比較的簡易な補強で堤防の決壊を遅らせ、周辺住民が避難する時間を確保する狙い。つまり、堤防天端を舗装することで、堤防上面からの水の吸収を遅らせ、土でできている堤防の水吸収による強度減弱を遅らせるという考えである。
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柳だけではない。雨竜川周辺の草丈にびっくり。

2016年09月21日 | Weblog

鷹泊橋の手前から堤防沿いに雨竜川の上流方向を眺めた。写真は昔の第二水泳場の方向を写したもの。

その昔の夏休みには、この先にある第二水泳場まで友達と競争するようにこの草原を駈けていって我先にと川に飛び込んだものだが、これだけの草丈だと、走ることはできないし、迷子になってしまいそうである。草の種類が変わったとは思われないのでどうしてこんなに草が背高く繁茂するようになったのだろうか。変わらぬ自然とはいうものの半世紀の歳月は自然をも大きく変化させていた。
学校にプールがない時代だったので、雨竜川に学校公認の第一から第四までの水泳場が決められ、夏休みにはそこで泳ぐように決められていた。今考えると深さは浅い場所ではあったが川での遊泳は危険であった。事故を起こさなくてよかったと今となってはホッとしている。第二水泳場の近くにあった溜め池(何かの採取跡だったのだろうか、ゲンバ現場?とよんでいたところ)でも泳いでいた。
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子供の頃のヤナギの思い出

2016年09月19日 | Weblog

写真は鷹泊橋から見た雨竜川と周囲の柳の木

この地域で一般的に生えている柳はナガバヤナギ(別名カワヤナギ)ということらしいので、きっとここに生えている柳はそれであろう。冠水耐性があり、河畔林を形成し、高さは10メートル くらいになるそうで柳の中では小ぶりに属するらしい。
七夕には柳の七夕飾りに短冊を取り付け、ろうそく出せよ、出さないとひっかくぞ。などといいながら近所の家を回ったあの時代を思い出す。子供のいなくなった鷹泊でこのような行事はもう無理であろうが、子供のまだ多い地域ではまだ続いているのだろうか。
ヤナギといえば、柳の木でつくった剣でのチャンバラごっこも思い出す。ヤナギの樹皮はきれいにむけるので、それを刀の刃のように見立てて振り回して遊んだ。
ともかく鷹泊に子供達はたくさん居て、遊びもいろいろと工夫していた。今どきの子供達はそんな遊びとは縁遠いのかなと思う。
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柳が目立つ鷹泊橋にさしかかって

2016年09月16日 | Weblog
元の鷹泊小学校跡のリフレッシュプラザ鷹泊を後にして国道に出てきた時に、
ちょうど幌加内から深川に向かうバスが通りかかったが乗客だれも乗っていないように見えた。ちょうどここにJR北海道バス深名線鷹泊自然公園バス停がある。一日全体で、バスを利用する人はどれだけいるのだろうか。

写真は、JR北海道バス深名線 鷹泊自然公園バス停

ともかく、鷹泊ダム方面に行こうと、鷹泊橋に向かった。
橋の周りは柳が背高く繁茂していた。川の周りにヤナギというのはどこの川沿いでも毎年見るあたりまえの光景ではあるが、8月という葉の多い時期が柳の木のボリュームを増しているせいかもしれない。
ヤナギといえば、なんといっても七夕飾りである。本州の七夕飾りは笹であるが、北海道はなぜか昔からヤナギである。子供の頃は、ノコやナタを持って適当な大きさの七夕飾り用のヤナギ川縁へ行って採ってくるのが夏休みの行事であった。そんなに大きくないヤナギを採ってきて飾った記憶があるので、大きな柳を眼にして違いに驚いた。

写真は国道を左折した先に鷹泊橋が見えるT字路
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時代の移り変わり。昭和30年代の学校には地元鷹泊出身の先生が多かった。

2016年09月14日 | Weblog
   
写真は二代目鷹泊小学校(後ろに見える体育館は昔と同じなのでなつかしい)と、前回ブログの写真再掲 いずれも鷹泊小学校記念誌からの転載。

昭和57年とおぼしきこの写真には二代目鷹泊小学校の近くに教員住宅と思われる住宅が写っている。昭和30年代の鷹泊小中学校はやっと一棟、学校の近くに教員住宅が建ったと思う。それまで教員住宅は「お化け屋敷」とのうわさがあった中鷹の古い二階建て住宅だけだった。
それでもなんとかなっていたのは、昭和30年代は実家が鷹泊の先生が多かったからだと思う。昭和30年代後半からは、教育委員会の方針のせいか地元に勤務できることは例外的になっているようだ。
鷹泊出身というか自宅が鷹泊にあった先生は宮◯、松◯、細◯、中◯、倉◯、内◯、中◯先生と今思い出しただけでも沢山いらっしゃった。
地域に児童生徒はたくさんいた。昭和29年の小中学生9学年で345人、昭和36年は9学年で288人と今では信じられない数であった。


いろいろと思い出は尽きないが鷹泊小中学校跡を後にした。
写真上はリフレッシュプラザ鷹泊方向から見た曲がり角部。
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廃校後の学校施設の跡地利用の明暗

2016年09月12日 | Weblog

リフレッシュプラザ鷹泊から元の学校の門の方向(西方向)を写した写真。

リフレッシュプラザ鷹泊は、鷹泊小学校の跡地利用として設置され、廃校施設をうまく活用した事例として日の目を見ている。一方、来る途中に立ち寄った2年前に廃校になった旧多度志中学校は、現時点ではそのまま放置されているが今後どうなるのだろうか。何らかの保存、管理がされないならば荒廃化が進行して、そのうち草木で覆いつくされるのではと感じた。
 母校鷹泊小学校は平成4年1992年)に開校90周年の記念式はあったものの、児童数の減少で、節目の100周年まであと5年というところで、平成9年に閉校したのは至極残念であった。もし小学校が存続していれば入植120年の今年平成28年年は114周年にあたる。


この写真は鷹泊小学校記念誌から転載したものである。学校プールに水が入っているので、昭和57年の夏の写真と思われる。昭和49年12月にできたこの二代目の校舎には90周年記念式典の時に1回だけ入ったことはあるが、あまり記憶にない。開校90周年の平成4年、この年の生徒数は6学年で13名とのことであった。
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