鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

家が少なくなった鷹泊市街 郵便局は残った

2007年12月28日 | Weblog
郵便局は昔、警察駐在所の隣、中鷹地区にあった。かなり前から下鷹地区に移転していたのは知っていたが、市街地の道路整備とともに今はさらにその場所とは違う少し北側に移転していた。郵政民営化後も、鷹泊クラスではなんとか郵便局は残ったようである。半世紀前、電話のない時代は今以上に郵便、電報が交信手段として重要であった。冬の除雪がされていない時期にはスキーを履いて、時には犬にスキーを引かせて、深雪のペンケやヌップ地区へ郵便配達していた方もいた。豪雪地鷹泊ならでのことではあるが、郵便事業が大切なのをあらためて思い起こした。 写真は鷹泊郵便局
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家が少ない鷹泊市街  なんとお寺がない

2007年12月27日 | Weblog
今の鷹泊市街地は くしの歯がかけたという表現以上に家が少なくなっていた。商店も昔からある松澤商店 が1軒あるのみで、他には全然見当たらない。コンビニもない。松澤商店の隣にJA給油所があるが、昔の農協の位置とは違うようだ。ようだというのは、街の中心部に基準地点となる建物がないので少々自信がない。昔はお寺があったので、その横とか右とかで位置の確認が可能だったと思うが、この位置が昔のどの家にあたるのか定かではない。写真は松澤商店とJA給油所 (JAが若干南に移動し、松澤商店がその北に移転したようだ)
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民家の板壁に映画ポスターがはってあった

2007年12月26日 | Weblog
青年会館の近くに沼があり、子供達はよく魚釣りをした。沼の真ん中に浮島があった。ドウを仕掛けてドジョウなどを捕まえている人もいた。春先には周辺に水芭蕉 が咲いていた。水芭蕉に対しては近年可憐な花のイメージが定着している が、子供の頃はへびの枕と呼んでいたので何となく気味悪かった。その沼も、ほどなく埋められて田んぼになってしまった。床屋さんの向かいの家の板壁に、時々映画ポスターがはってあった。勿論、映画館があるわけでなく、年に数回学校の体育館での上映であった。皆、座布団などを持ち寄り出かけた。当時全盛の東映の時代劇をよく見た覚えがある。どの映画もおもしろかった。
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苗圃びょうほ、青年会館へ続く道

2007年12月25日 | Weblog
 写真は中鷹、下鷹の境界にある、昔は苗圃(びょうほ)へと続いていた小道である。床屋さんの真向かいらこの道に入り、踏み切りを越えて突き当たりのなだらかな斜面に苗圃があった。ビョウホ、ビョウホと漢字も意味も知らずに使っていたが、木の苗を育てて植林に役立てる場所である。野菜畑のように松の苗が一面に植わっていた。今、苗圃は消滅しているに違いない。その途中、踏み切り手前右には地元青年団の集会場である青年会館があった。昔は鷹泊のような農村山村では若者は地元に残り仕事の傍ら青年団に入って活動する人が多かった。
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昭和30年代鷹泊では馬が活躍していた

2007年12月21日 | Weblog
昭和30年から40年にかけて、産業構造に大きな変化があった。農山村の鷹泊であったが、稲作が奨められた結果、原野沼地もどんどん開墾されて水田になり、その水田も大型化されていった。馬を使った農作業が機械化され、たくさんいた農耕馬の姿も急に見なくなった。燃料も薪から石炭に変わっていった。農機具に関係していた鉄工所1件と馬具店が30年代後半にはなくなった。馬がたくさんいた往時には、鷹沼橋の近くで年に一回ばんば大会が開かれた。力自慢のドサンコ馬と乗り手のたづなさばきに大声援が飛んでいた。
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鷹泊商工会は今いずこ

2007年12月20日 | Weblog
昭和30年には鷹泊市街地の通り(今の275号線沿い)にはお店がたくさんあった。思いつくままあげてみると、南のほうから貞○馬具店、大○商店、坂○商店、牧○旅館、吉○薬局、高○床屋さん、今もある松澤商店、三○魚屋・自転車屋さん、萩○鉄工所、弘○精米所・商店、農協、中○鉄工所、桜○お米屋さん、○魚屋さん、大○豆腐店、宮○商店、田○製材所などなどがあった。思い出さない店もまだあると思う。それが今は松澤商店1軒だけのようだ。当時、年末に鷹泊商工会から各家に配ってくれた日めくりカレンダーにはずらっと商工会の店名が連ねて書いてあった。商工会の繁栄を表していたあのカレンダーが懐かしい。  写真は国道275号線 下鷹から中鷹・上鷹方向を見る
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昭和30年鷹泊に路線バスはあった

2007年12月19日 | Weblog
平成9年の鉄道廃止に伴う路線バス の運行だが、実ははるか昔にも多度志-鷹泊間を路線バス(中央バスだったと思う)は走っていた。地元の人も若い方は知らないと思う。しかし昭和30年に鷹泊をおそった洪水で道路が壊れ、以後42年にわたって路線バスはなかった。当時の道路は舗装されておらず、ぬかるみにはまって立ち往生したりしていた。宇○パン屋さんの前をバスターミナルとして使用していたが、ここへの道が雨が降った時には難所だった。昭和30年に大ヒットした ♪ 田舎のバスはおんぼろ車 ♪ と歌う曲「田舎のバス」がこのバスにぴったりだった。でも田舎のバスはいいもので、バス停以外のどこでも降ろしてくれた。 
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深名線は今も健在 ただしJRバス路線で 

2007年12月18日 | Weblog
駅からの道を右折したところにJRバスの鷹泊待合所があった。昔でいうと下鷹の○村さんと○下さんの間の位置である。寒い冬にも対応したと思われる造りで、「JR北海道バス深名線鷹泊待合所」と書いてある。消滅したと思っていた深名線の名称はバス路線で健在だった。なんといっても全国区でも有名な由緒ある名前ゆえ、深川-幌加内間だけの運行でも深幌線とはいわず、深名線というのだろう。でも考えてみると鉄道時代の深名線も名寄まで直接は行かず、深川-朱鞠内までの運行だった。写真はJR北海道バス深名線鷹泊待合所
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鷹泊駅前通と国道275号線との交差点

2007年12月17日 | Weblog
この鷹泊駅前通りには昭和30年当時、一般の家を除くと右手には日通の○村さん、飴製造の浜○さんがあり(パチンコ台も置いてあった)さらに食堂の新○さん、営林署公宅、何の店か記憶にないが高○さんと続き、左手には富○商店があった。駅前と言っても往時でもそんなに賑わっていたわけではない。
突き当たりのT字路近くには、秋祭りの時には大きな行灯が掲げられ、祭り気分を盛り上げていた。行灯には農村ゆえ五穀豊穣の文字が入っていたのを思い出す。 写真は駅からの道が国道275線にぶつかるT字路 元々この交差点付近には、中○さんの1軒以外なかったので、一時停止の標識がある以外、風景は昔とそう変わっていない。
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鷹泊には レンガ工場もありました

2007年12月14日 | Weblog
またこの農協倉庫の近くには昭和29 年9 月の台風15号(洞爺丸台風) でつぶれたレンガ工場があった。洞爺丸台風 は風台風として知られており、大雪山系の木々がなぎ倒されたそうであるが、内陸部の鷹泊でも強烈な風が家を揺らし怖かった記憶がある。レンガは粘土を焼いて造るが、鷹泊のこの地区に良質の粘土があったからでないだろうか。粘土地は乾くとガチガチに硬くなり、雨が降るとすぐグチャグチャになって水はけが悪く、農業地には向いていないが、子供たちにとって粘土は格好の遊び道具だった。赤い粘土は粘度に欠けるが、グレーの粘土は粘土細工に最適だった。学校近くの線路沿いに良質の粘土のある場所があったが今はどうなっただろう。
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