鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊小学校 体育館の思い出

2008年01月30日 | Weblog
二代目小学校では昔の体育館がそのまま使われていたが、リフレッシュプラザ鷹泊にはその体育館の姿はない。昭和29年に完成した体育館は当時はできたばかりの立派なものだった。 鉄扉を開けるとそこは広い室内運動場。小さな小学1年生から大きな中学生までが一緒に走り回っていた。柔道、相撲の指導に長けた細○先生がいらっしゃったせいか、武道は盛んだった。体育館の壁には柔道の級位段位札 がぶらさがっていた。初段○○とかのたくさんの名札が掲げられていてさながら道場のような感じだった。 体育館のステージの横の控え室には柔道の畳が積まれていた。 
3月には体育館での厳粛な卒業式。厳寒地鷹泊の3月の卒業式は石炭ストーブを取り付けて暖房した中で行われた。しかし9学年一緒だから低学年にとっては、寒くて大変だった。
写真は往時の鷹泊小学校体育館

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 鷹泊小学校 応援歌の思い出 

2008年01月28日 | Weblog
運動会といえば応援歌。昭和30年代に鷹泊小中学校に在籍した方は応援歌を覚えているはずだ。
1番:浅羽の山の峰かすみ 雨竜の流れ悠々と
巡りて絶えぬあの意気で 巌に泊まる白鷹の
名をこそあげん晴れの場所 ふるえやふるえ我が健児 フレ赤(白)フレ赤(白)フレフレ赤(白)
2番:神社の森の山桜 咲いて匂うてうららかに
花吹雪したあの庭で 励み鍛えたわがかいな
試すは今日ぞこの庭ぞ ふるえやふるえ我が友よ フレ赤(白)フレ赤(白)フレフレ赤(白)
校歌がなかった時代、この歌を校歌代わりにしていた感もある。中学生になって、この応援歌が一高寮歌「ああ玉杯に」とテンポが違うがメロディーが似ているのに気づいた。替え歌かなとの疑問を生じたりもしたが心に残る歌として今もしっかり覚えている。歌詞は浅羽山、雨竜川、鷹泊岩、神社と鷹泊定番の名前が入っている。

写真は浅羽山遠景

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鷹泊小学校 グラウンドの思い出

2008年01月25日 | Weblog
鷹泊小学校グラウンドには 回旋塔 (電車のつり革みたいなのにつかまって塔の周りをぶらさがって回る遊具)があった。今の時代だと危険なのかもしれないがおもしろい遊具だった。実際、30年代途中に老朽化で倒れてしまった。事故につながらなくてよかった。グラウンドの思い出といえば、なんといっても運動会だ。 前日に各自生徒がクワを持ちより、雑草をとって整備したグラウンドに白線を引き、国旗掲揚塔のてっぺんに日の丸が揚がり、そこから続く万国旗で気分は高まった。新品の白い開襟シャツ、パンツ、白足袋、赤白のはちまきの4点セットだった。今考えるとなぜ靴でなくて足袋なのか疑問である。まさの当日だけの使い捨ての足袋であった。赤白に分かれて、旗を振り応援歌を歌っての応援合戦はなつかしい。
(写真は鷹泊小学校とその校庭、記念誌より転載)

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二宮金次郎像は鷹泊で永遠に存在

2008年01月23日 | Weblog
戦前は修身教育の重要な手段として,全国各地の小学校の校庭などに二宮金次郎像が建立されたが戦後は一転、撤去が進んだようだ。鷹泊小学校の金次郎像は、各地で撤去が始まった後の昭和37年に小学校OBにより寄贈されている。金次郎像撤去の理由は Wikipediaによると、「像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから(ほんとかいな)、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。」とのこと。今の時点で撤去されていないということは、もう永久保存のようなもので、ラッキーにも安住の地を見つけたようだ。写真は冬囲いされている 二宮金次郎像
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鷹泊小学校グラウンド跡は数年後桜の名所に

2008年01月21日 | Weblog
初代校舎の北側に大きなイチョウの木があった。なつかしの対面といきたかったが、残念ながらその木らしきものはなかった。広々していたグラウンドだった部分には植樹がされていたこともあり、記憶にある鷹泊小学校校庭の面影はなかった。看板に「千本桜の街 鷹泊」鷹泊地域振興会 と書いてあったが、東屋もあり、小公園といったところだ。植えられた桜の木はまだ小さいが、そのうち桜の名所になるかもしれない。他に何か残っていないかさらに探したところ唯一、二宮金次郎の像があった。
写真は桜の木が植樹されたグラウンド跡
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片方だけ保存されている鷹泊小学校の門柱

2008年01月18日 | Weblog
思いで深い初代校舎、そして二代目校舎共になくなった校舎跡に何かが残っていないか、ともかく行ってみた。昔と同じ位置に門柱が片方だけ保存されて残っていた。門柱は一対あって用を成すのであるが、今は保存のためだから片方だけなのだろう。平成9年3月31日閉校と書いてあった。閉校後もう10年以上たっている。閉校の文字がやけに寂しく感じられた。初代校舎の門柱は木製の太い円柱タイプだったと記憶しているのでこれは新たに造られた二代目校舎の門柱と思われた。写真は保存されている鷹泊小学校の門柱。
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鷹泊 小中学校は小中一貫教育のエリート校?

2008年01月16日 | Weblog
しかし記憶の中の学校といえばこの初代鷹泊小中学校だ。写真で見る姿には古きがゆえに風格を感じる。小中学校というのは、当時小学校と中学校を同じ校舎を使用していた併設校だったからである。最近一部エリート校で導入されはじめた中高一貫教育校とは意味合いが全く違うが、9年間の長きにわたり同じ校舎で学んだゆえ、旧校舎に対する思い入れは深いものがある。お隣の幌成も小中学校併設校だったので当時は小中学校が当たり前と思っていた。(写真は初代 鷹泊 小中学校校舎。記念誌から転載したものであるが不鮮明なのでクリックして拡大で見て下さい。)
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2代目鷹泊小学校の跡にあるリフレッシュプラザ鷹泊

2008年01月15日 | Weblog
この写真は昭和49年から平成9年までの23年間存在した2代目の鷹泊小学校である。こじんまりとした現代っぽい校舎がグラウンドの南サイドに建っている。体育館は昭和29年に造られたものをそのまま利用しているので、その部分を見るとさすがに懐かしい気持ちになる。さらには小さな校舎なのにプールまである。川で泳いでいた世代のものからみるとずいぶんめぐまれている。(写真は鷹泊小学校90周年記念誌より転載。以下、昔の写真はすべて記念誌より転載)

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リフレッシュプラザ鷹泊で昔の鷹泊小学校を思い出す

2008年01月13日 | Weblog
脳裏に初代鷹泊小中学校校舎の姿を思い浮かべながら、学校跡地へ行ってみた。そこに今あるリフレッシュプラザ鷹泊は地元の人のための施設だが、旧深名線資料室が併設されているのがセールスポイントで、それを目当てに地域外の方も少なからず訪れているようだ。その立地位置は、正確にいうと、グラウンドの南に東西方向に位置していた二代目小学校校舎の位置であり、南北方向に教室を連ねた初代鷹泊小中学校校舎しか知らない者にとっては、どこかイメージが重ならなかった。
写真は鷹泊神社方向から見たリフレッシュプラザ鷹泊
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思い出の鷹泊小学校を求めて

2008年01月11日 | Weblog
市街地をひととおり見てから、鷹泊小中学校跡へ向かってみた。鷹泊小学校は明治35年開校し、昭和30年代には多数の生徒がいた。当時通った懐かしの旧校舎は昭和49年に新校舎に建て替えられた。しかしその新校舎も過疎化が進んだために平成9年お隣の多度志小に吸収合併され閉校となり、鷹泊から学校がなくなった。(生徒数は平成4年に6学年で13人とある)開校95年に相当し、惜しくも100周年に5年たりなくての閉校となった。その跡地に、校舎の一部を使用して、地元の人の集会、研修目的のリフレッシュプラザ鷹泊が造られて校舎跡に残っている。
写真は国道275号線沿いに立っているリフレッシュプラザ鷹泊を示す看板
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