鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

七夕の日に「鷹泊入植120年を祝う会」開催

2016年08月31日 | Weblog

写真はリフレッシュプラザ鷹泊へ通じる交差部に設置されていた看板。

昭和30年代の故郷鷹泊を思い出してみようということで、鷹泊岩を眺めてから鷹泊の市街地に入った。子供時代の8月といえば楽しかった夏休みの記憶が思い起こされる。ここ数年の間に何回か鷹泊に来たが8月には来ていない。夏真っ盛りの鷹泊を巡ってみようと、まずは遠い所からと考えて鷹泊ダムを目指して国道を走っていると、「鷹泊入植120年を祝う会」の看板が目に入った。
今年の8月7日は鷹泊にとって特別な日になっている。
後日、入植120年を祝う会は盛会に終了したという情報も入り、うれしく思います。また地元新聞にも掲載されていたようです。
このブログも、入植120年の歴史を多少なりとも意識して書いてみます。
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もう一つの文書でも鷹がとまっていたから鷹泊であることを確認できた。

2016年08月30日 | Weblog
写真は鷹泊岩
北方向から見れば鷹泊岩はよく見えた。


また新深川市史(平成6年刊)には、以下のように記載されている。
【鷹泊の語源は雨竜川の流れの中にある岩にいつも鷹がとまっていたのでこれを「鷹どまり岩」と呼んだのが初めであると言われている。】
この文は看板に表記された説明文と「鷹」と「トビ」が異なる以外は同じである。なぜ鷹がトビに変わってしまったのだろうか。
ともかく結論として、多度志町史、新深川史ともに、鷹泊のいわれは鷹がとまったことに由来する。また鷹がとまったことから鷹泊岩と命名したとも書いてある。トビのことについては一切触れていない。
公的なお墨付きをいただいて、私の頭の中のもやもやした気持ちは晴れてすっきりした。

しかし、すっきり気分は長くは続かなかった。後日あらためて看板の説明文の英語部分を読んでみると、【People noticed that a hawk always perched on a rock by the Uryu River in old days.】とあった。
英語の説明文の方は、鷹(hawk)が岩にとまったと書いてあるではないか。トビ(kite)とは書いていない。
これはどういうことだ。私の頭は混乱してきた。迷路に迷い込んだみたいだ。もうこれ以上はつきあいきれない。話題を変えよう。


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鷹泊の地名は、昔この近辺で鷹の姿がよく見られたことに由来することを確認。

2016年08月28日 | Weblog
ともかく鷹であったことを公的書類で確認すべく、多度志町史を調べてみた。深川と合併する前の昭和40年に多度志役場から発行されたものだ。村長を4期、町長を確か2期務められた水谷隆毅町長さんの名がなつかしい。そこには次の記載があった。
【鷹泊  元来、和語から来たアイヌ語である。タカ(Taka)トマリ(tomari)である。タカはアイヌ語でも鷹を指し、トマリは港の意味、即ち鷹が来て泊ったというアイヌ語を和訳したのである。
その後付近の岩に屡々鷹が来て泊る岩があったので、その岩を鷹泊岩と名づけるようになった。】
いろいろ説はあるのかもしれないが、この記載を確認できたことで、長年にわたって鷹がとまったと信じて疑わなかった者としてホッとした。



写真は鷹泊岩再掲 ともかく確認しづらい。
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鷹泊岩にとまったのは鷹ということになっていたはずだが。

2016年08月26日 | Weblog
鷹泊岩は国道から見て雨竜川の対岸に存在するが、この時期は木々の葉が生い茂っていることもありとても真向かいからは見つけづらい。



昭和30年代、鷹泊小中学校で9年間過ごしたが、その間運動会その他の時に歌い続けた応援歌の歌詞には鷹泊岩にとまった鷹が表現されている。

♪♪ 浅羽の山の峰かすみ 雨竜の流れ悠々と めぐりて絶えぬあの意気で
巌(いわお)にとまる白鷹の 名をこそあげん晴れの場所 奮えや奮え我が健児 ♪♪

この歌詞の中で、白い鷹というのは脚色した表現で実際は普通の茶色の鷹だったはずだが、動物を神格化する際に白い動物というのはよく使われている。ともかく鷹泊岩に鳶ではなく鷹がとまったことを表現している歌である。

また鷹泊ふるさと会で配布された資料にも地元鷹泊に明治の入植時からの言い伝えとして、鷹がとまったことが下記のように記載されている。
【巨岩を眺めていると、岩上に生えていた三本の松の木の一本に鷹が来て止まりました。これを見た二人が話をし、まだ地名の無かったこの地を一応「鷹どまり」と呼んでおこうではないか・・・】
ともかくトビのことは話に出てきていない。
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鷹泊岩にとまったタカとトビとの違いを考える。

2016年08月25日 | Weblog

写真は鷹泊岩 この岩は四季それぞれに何かしら雰囲気をかもし出してくれる。8月の鷹泊岩周辺は緑に覆われ特に美しい。夏場は岩を見つけづらいのが難点ではあるが。

タカ(鷹)とトビ(鳶)について。
ネットで調べると、タカ(鷹)もトビ(鳶)も「鳥類・タカ目タカ科」というカテゴリーに属する猛禽類であるがいくつかの違いがある。
タカがトビより少し大きく、タカは羽ばたくがトビはほとんど羽ばたかない。
尾羽の形が違う。鳴き声はタカが「ギッギッギッ」で、トビが「ピーヒョロロ〜」。タカは肉食が主で生きている動物をエサにするがトビは小動物や魚などの死骸などを食べている。等々の違いがあるとされる。
しかしそのような違いよりも問題なのはタカとトビのイメージである。
タカは格好良く鋭いイメージが思い浮かぶ。プロ野球ソフトバンクホークス(Hawks)を強い鷹軍団としてスポーツ紙などで表現されることがあるが、鳶軍団であれば今ひとつ強そうなイメージが湧かない。
また鳶が鷹を産むということわざがあるが、これは鷹のほうがはるかに優れている表現でもある。
今まで鷹であると信じて疑っていなかったので、この看板の説明文を読んだ時、何でトビなのだろうという疑問が湧いてきた。
でも以前からトビ説があって、もしかして知らなかったのは自分だけだったということはないだろうか。
冷静に考えてみると、100年以上前に、この岩に泊まっていたのが鷹なのか鳶なのか、この手の言い伝え伝説には諸説があっても不思議ではない。
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鷹泊岩の位置は看板設置でわかりやすくなっていた

2016年08月23日 | Weblog

もう少しで鷹泊、雨竜川の川向こうにいつもながらのなつかしいイノシシ山が見えてきた。ふと見ると国道275号線の切替橋のあたりの左手に見慣れぬ看板があった。

看板は鷹泊岩をわかりやすく説明する観光客、国道通過者のためと思われる看板で英語も併記してあった。2年前にここを通った時はなかったと思う。
元々鷹泊岩は見つけづらい場所にあるが、なるほどこの位置から見るとよく見える。この看板設置はすばらしい。Good jobと叫んでみたかったが、鷹泊岩についての説明文を読んでみると、ん?と思わせる記載があった。


【鷹泊岩の語源は雨龍川の流れの中にある岩、いつもトビが止まっていたので、これを「鷹泊岩」と呼んだのが初めてといわれている。
深川商工会議所、深川市観光協会】
どうしてタカでなくトビなのだろう。
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幌成にはお寺がずっと昔から存在

2016年08月21日 | Weblog
国道275号線を走っていると、幌成駅があった付近の国道沿いの人家の少なさが目立った。幌成駅があった付近よりもよりも下幌成乗降所があった辺りのほうが人家も多そうであった。人家のかたまっている辺りにお寺とおぼしき建物があった。国道を右折して行ってみると成福寺というお寺であった。鷹泊と幌成は昔も今も人口は同じくらいだが、お寺は立派に残っていた。
かなり昔に一度来たことがあるのを思い出した。
いつだったか鷹泊に住んでいた親戚の葬儀がこのお寺で行われたことがあった。どうして鷹泊のお寺で行わないのだろうかと当時は思ったが、すでにその時は鷹泊のお寺がなくなっていたから必然的にそうなったのかと今になって納得した。
その後はリフレッシュプラザ鷹泊を葬儀の会場として使用することもあるようだ。

写真は下幌成の成福寺
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多度志で一休止して、目指す鷹泊へ

2016年08月19日 | Weblog

写真は元の多度志中学校から鉄道駅があった方向を望んで。

鷹泊以上に大きな学校でも人口減で消滅するという時代の移り変わりを多度志中学校の閉校跡を見ることであらためて感じさせられた。
多度志で一休止した後、国道275号線を鷹泊目指して進んだ。国道と並走する鉄道があった時代は、車を走らせていた時に、途中鉄道と国道が交差する3カ所の踏切でいちいち停止することが面倒と感じていた。勝手なもので、踏切での一時停止がなくなってノンストップで走れる今は逆に残念にも思える。踏切がこのあたりにあったはずだと思いつつ、 多度志、宇摩、幌成を通過した。国道はきれいに整備されており、鉄道の踏切があった痕跡すら見あたらなかった。周囲は水田とソバ畑が半々であるように見受けられた。土地改良のためか重機が入って工事中の場所もあった。宇摩小学校と深名線宇摩乗降所があった付近は農家がそれなりに存在していた。
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雑草が一面に広がる元の多度志中学校校庭を見て思うこと。

2016年08月17日 | Weblog
元の多度志中学校校舎はかなりの年数を経過しているが外から見た限りではそんなに古びた感じはしない。
周辺に人家はあるものの、廃校になった丘の上にある校舎に人の気配は全くなく、短い夏を惜しんでいるようにセミの声があちこちから聞こえていた。
廃校になって2年が経過しているがグラウンドは雑草で覆われていた。元の校舎を何かに転用するような計画はないようであった。周辺はソバ畑で、今はソバの白い花が満開である。中学校が消滅し、跡地利用されないのであれば、立派だった校庭はこのまま雑草の生い茂る草原に変化していくのだろうか。


写真は雑草で覆われた元多度志中学校の校庭。正面にバックネットが残っている。
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閉校後の多度志中学校ナウ

2016年08月14日 | Weblog

数年前に閉校になった多度志中学校跡に立ち寄ってみた。前回の記事で6年前の時点で多度志地区全体の15才未満人口が60人(1学年平均4人)という数字であるが、今はもっと少なくなっていることが予想される。2年前に多度志中学校が深川一已中学校に併合されたのは苦渋であったかはわからないが納得できる決断だったと思われる。
歴史をひもといてみると昭和45年4月1日、多度志中学校、幌成中学校、鷹泊中学校が名目統合し、新校舎の落成を待って昭和47年5月1日に実質統合に相成ったということである。その時にできた新校舎も40年以上の歳月とともに廃校となったのは残念ではあるが生徒数の激減の流れには対抗できなかったということだと思う。

写真は平成26年3月31日に閉校した多度志中学校の元校舎
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