鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

市街地今昔物語

2010年08月30日 | Weblog
今、昔で言う上鷹ブロックには鷹泊神社、リフレッシュプラザ鷹泊さらにはJR深名線バス停(鷹泊自然公園前)があるが、人家は激減している。
鷹泊神社は、お祭りのこども相撲と冬のスキーが思い出である。神社の坂を滑り降りて、そのまま自宅玄関まで到達できる子をうらやましく思ったものだ。
半世紀前、製材所は鷹泊に2軒あった。そのうちの○中製材所は、鷹泊神社の向かい付近にあった。製材所へ、馬車に丸太を乗せていき、製材にしてもらったりしていた。当時の記憶として、製材所では鋸を回転させる石油発動機の始動に、紐を勢いよく引っ張るという方法を用いていた。発動機に繋がったベルトで、鋸を回転させていた。木を鋸でひくときのキーンと響く音には、活気があった。また、お祭りの子供相撲の土俵には砂や土ではなく、製材に伴って出来る、おがくずを撒いていた。おがくず土俵は、転んでも痛くなかった。


写真は鷹泊神社の上から見た周囲の風景
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端から端まで歩いてもあっという間の鷹泊市街地

2010年08月27日 | Weblog
上鷹から南鷹まで歩いても、あっというまに着いてしまう。子供の時の記憶ではもう少し市街地は長かったと思っていた。大人と子供の感覚の違いといえばそれまでだが、拍子抜けするほどだった。昔は郵便局が市街地部分のほぼ中央部分にあって、市街地を貫く道路の両側に家が並んでいた。お寺がなくなり、郵便局も昔とは違う場所であり、ここが昔の○○さんの家だったハズと思っても位置関係に自信が持てない。その中で、巡査派出所が、ここは間違いなく昔と同じ位置と思われる場所にあった。


写真は、鷹泊巡査派出所
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人の姿はなく、過疎の鷹泊市街地

2010年08月25日 | Weblog
ヌップ竜水地区から鷹泊橋を渡って鷹泊市街地へ戻ってきた。久しぶりに、道路を歩いてみた。市街地といっても今は人家も少なく、昔の街並みは、櫛の歯が欠けたというより、ふさふさ髪がバーコードヘアになった感じ。スケスケである。途中に一軒、壊されたばかりと思われる家があった。(写真下)こうしてまた一軒減っていくのかと暗い気持ちになった。
街を貫く国道275号線は立派で、今市街地に残っているお家は皆昔に較べると格段にきれいであるが、家の数はポツポツであるのはさみしく残念である。歩いていて、国道を通過する車には、遭遇したが、表には人の姿はなく、誰にも出合わなかった。


写真は最近壊されたと思われる家屋。
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運動会の思い出の続き

2010年08月23日 | Weblog
当時鷹泊小中学校では、体育の授業でも普段着そのままで行っていた。どこの学校もそうだったのかな。汗をかいた服をそのまま着て、次の授業を受けた。(その後何年かして、トレパン、ジャージのような運動着に替わったかどうかは知らない。)
運動会の当日のみ、真新しい白い開襟シャツとパンツ、運動靴でなく足袋をはいて晴れ舞台に臨んだ。現代は運動会ルックもカラフルになっているが、昔は白オンリーだった。
運動会に向けて、父兄がハサ木を組んで生徒の応援席を急造してくれた。ハサ木とは、はさかけ(稲架掛け)に使う長い木である。 ♪♪ 浅羽の山の嶺かすみー ♪♪と応援歌を歌い、小学1年から中学3年までの皆々が、赤白の旗を振って応援合戦をした。
国旗掲揚塔から万国旗が垂れ下がり、グラウンドに引いた消石灰の白線(今は安全性のため、消石灰は使用しないようだが)とスタートのパーンというピストル音、スピーカーからの放送はいやがおうにも運動会の雰囲気を高めた。今懐かしく思い起こされる。
過疎で鷹泊から学校が消滅してしまい、今はただ古い過去の思い出物語である。


写真は保存されている鷹泊小学校門柱
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運動会は年1回のご馳走の機会

2010年08月20日 | Weblog
運動会は、田植えでの農繁期(生徒にとっては農繁休暇)が終わって落ち着いた時期(6月)の街を挙げてのイベントであった。また、運動会は子供にとっては競技のほかに、普段食べられないご馳走を食べられる、お小遣いをもらって出店で買える(水鉄砲とか、おもちゃのピストルとか)、など楽しみだった。アイスクリームや紙を巻いた棒状のアイスキャンディーも運動会以外は機会がほとんどなかった。またバナナは一本20~30円くらいで、普段はとても口に入らない高級果物だったが、運動会の出店では売っていた。果物の消費者物価指数は、基準年の平成16年を100とすると当時は18前後なので、今のお金で一本150円位だろうか。一房ではなく、一本150円だとするとやはり当時バナナは高級果物だった。

写真は近くに咲いていたカタクリ
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運動会と君が代行進曲の思い出

2010年08月18日 | Weblog
鷹泊小中学校運動会の行進曲の思い出といえば、「君が代行進曲」だ。今でもこの曲がたまたま耳にはいってくると、当時覚えてしまった変な替え歌の歌詞が湧き出でてくる。「君が代行進曲」の1番部分は君が代だが、2番の軍歌「皇国の守」(というらしい)部分を、替え歌で「いーなかのもうろく爺っこ 東京見物でー 電車にひーかれて ○○○○ 以下略」などと歌っていた。この替え歌の歌詞は鷹泊だけなのだろうか。
曲は以下参照 http://en.kendincos.net/video-fttjrhlh----kimigayo-march-.html
こんな条件反射みたいな反応をするのは、自分だけかな?そうだとすれば恥ずかしいが、小中学校9年間、運動会のたびにスピーカーから流れるこの曲を聞きつづけたので脳細胞にしっかりと刻み込まれてしまった。  マズーィ。


写真は近くに顔を出していた土筆
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ドジョウを捕ったこともある竜水地区の小川

2010年08月16日 | Weblog



竜水のこのあたりは高台なので周囲が見渡せる。
眼の前の田畑(上の写真)は、肥料袋が並べられ、耕されるのを待つ状態である。下の写真の丘陵地は、昔は○野さんがあった付近だ。今は区画整理されて、水路も直線的になっており、魚が住んでいるという雰囲気ではないが、半世紀前、このあたりに運動会のドジョウつかみ競争用のドジョウを捕りに来たことがある。先生と近所の人との協力のもと、ドジョウをザルですくって捕った。どうしてここまで捕りに来たかは定かでないが、この小川にたくさんドジョウがいるという地元の人からの情報があったのだと思う。
翌日の運動会。ヨーイドンで途中に置いてあるバケツの中のドジョウをつかんでゴールまで走ってくるという競技であるが、うまくドジョウをつかめずビリであった。
競技終了後に、ドジョウを一度バケツの外に落として土をつければ滑らずにつかめるという裏技を教えてもらったが後の祭り。来年こそと思ったものの翌年からはその種目はなくなってしまった。
写真は竜水地区の田畑(上)と丘陵地(下)
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鷹泊の開拓地も今は夢の跡

2010年08月13日 | Weblog
竜水の南西の方向に行ってみた。昔、開拓と呼ばれていた地域だ。廃屋が2軒、壊されずに、姿をとどめていたのがよけいに寂しさをかもし出していた。
その当時、ヌップ、竜水の乳牛を飼っていた家では、毎朝集乳缶という18リットル(1斗)入る容器を道路沿いの場所まで出していた。集乳缶というのは、北海道名産バター飴のモデルになっていることでもお馴染みの缶だ。 
搾りたての牛乳を宅配してもらった時期もあった。4合瓶に入っていたその牛乳はおいしかった。その時の4合瓶(720ml)というのは、焼酎の空き瓶だったと思われる。今は畜産にしても大規模経営の時代であり、もう鷹泊で乳牛を飼っている家はないと思う。
今でも何かの折に、牛の糞の独特な匂いを嗅ぐことがあるが、自分にとってそれほどの悪臭には感じない。幼少時期に鷹泊でこの匂いの中で過ごしたことがあるという体験のせいだろうか。


写真は壊されずに残っている廃屋
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フキノトウの目立つ墓地

2010年08月11日 | Weblog
お墓は、最近整地されたのだろうか。この時期、フキノトウが周囲に顔を出してはいたが草も木ももあまり生えていなかった。昔は、お墓にはもう少し樹木や草花があった。グラジオラスや彼岸花などが咲いていた。こけこっこ花(タチアオイが正式名称)も覚えている。花びらをほっぺたにつけて遊んだりもした。墓地にあった柏の木だったと思うが、その堅い実をかじって食べたりした。お墓も子供にとっては遊び場の一つだった。今、緑が少ないのは春先のせいで、季節が進めば緑豊かになるのだろう。
冬の思い出では、永井山スキー場の低学年コース(前方にある小山)は頂上から直滑降でうまく滑れば墓地まで到達できた。そのうち山腹にまで田んぼが出来て、傾斜の関係で墓地まで到達できなくなり、がっかりした思い出がある。


写真はフキノトウが目立つヌップ墓地
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ヌップ墓地は残っていた。

2010年08月09日 | Weblog
永井山のふもとにある墓地(正確にはヌップ墓地というようだ)は今も残っていた。墓石の新しさが目立つお墓もある。お墓の碑文から判断して、平成10年以降に建立されたお墓もあった。しかし、ここに併設されていた火葬場は昭和48年に深川市一已にある北空知葬祭場に統合され、今はもうない。短絡的に、お墓もこの地からなくなっているのではと思っていたことを反省。鷹泊にずっと住んでいた人にとっては、この地を終の棲家として眠るということだろう。 
写真は新旧のお墓が並んでいる墓地
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