鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊ダムへの遠足とおにぎりの回想

2010年07月30日 | Weblog

雪が残る鷹泊自然公園を後にして鷹泊ダムへ向かった。ダムは力強く放流していた。このダムには遠足で、小学校入学から中学校卒業まで、何回来ただろうか。遠足は春と秋、年2回あった。
数多いダムへの遠足経験であるが、一度だけ川の向こう側のペンケ側から歩いて、このダムへ遠足に来たことを思い出した。今、振り返ると、その道なき道は危険ともいえる行路であった。油断すると川へ転がり落ちそうな傾斜地を四つん這いになるようにして通過した場所もあった。今の時代なら許可されないような道だ。しかし今になって振り返ると、二度と体験できないような貴重な冒険?として自分の思い出の1ページに残っていることを感謝している。
当時、遠足には海苔を巻いた大きなおにぎりを直接新聞紙でグルグル包んで持って行った。直接新聞紙で包むのは変だと思いつつ、皆と同じようにしていた。このスタイルは田舎の専売特許だとずっと思っていたが、最近見かけた記事では新聞紙はラップやホイルに較べて通気性がいいため、ご飯の水分がたまりづらく保存性がよくなるというのを見つけた。なるほど、あのおにぎりは理にかなっていたのだと評価納得した。

写真は雪の残る鷹泊自然公園(上)と鷹泊ダム(下)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残雪の鷹泊自然公園

2010年07月28日 | Weblog
ペンケまで来たついでに、鷹泊自然公園にも再度立ち寄った。鷹泊ダム手前で道を左折して公園への脇道を登っていくと、雪解け水が道にあふれ出ていた。5月16日、豪雪地の鷹泊の山奥ではまだ道の雪が融けきっていなかった。何とか夏タイヤの車で自然公園に達した。1週間前なら夏タイヤでは登れなかったかもしれない。
ここは高地でもあるため、公園内の残雪が目立つ。周囲の残雪を頂いた山は湖とマッチして美しい風景だ。この風景の独り占めは贅沢な気分だが、静けさ・静寂を通り越してあまりにも寂しすぎる場所だ。
今年も7月には鷹泊湖水祭りが開かれたそうで、この1日だけは例年大賑わいになるようだが、せめて夏の間だけでも、キャンプ地として、もう少し人が訪れて欲しいものだ。





写真は鷹泊自然公園
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ながらペンケ神社はなかった

2010年07月26日 | Weblog
昔の、鷹泊からペンケへの道を逆走する形で進んだ。車が走れる道ではあるが、木の小枝が道へ覆い被さっている所もある。この道は今は使われていないようだ。ペンケ橋を通り、神社への入り口とおぼしき石垣を積んだような場所を見つけた。この場所が神社への登り口であることはすぐわかった。ここを上がっていくと100段ほどの階段があってその上が神社だった。しかし、もう何年もひとが通ったような形跡はななかった。残念ながら、ペンケ神社は既になくなっているという結論に達した。登っていく気も消え失せた。ペンケ地域の人も少なくなっているので、必然の成り行きではある。こだわりで半世紀前に見たペンケ神社の桜をもう一度見たかったわけだが、やむなく引き返すことにした。

写真はペンケの風景
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペンケ神社を目指して

2010年07月23日 | Weblog

国道275号線を右折し、鷹泊橋をわたってさらに右折して鷹泊ダム方向に進んだ。桜が未開花であるのは、わかってしまっていたが、目的の場所の一つであるペンケ神社を訪ねることにした。鷹泊ダムへの道を途中で右折して、協栄橋を渡ってペンケに入った。
昔のペンケのイメージは水田と集落であった。今は農家が数軒あったが、半世紀前と較べて戸数の少なさは歴然だ。
周囲を見渡すと、残雪でおおわれた山々は青空に映えて、のどかな農山村の雰囲気を感じた。
神社を目指してもとあった道(鷹泊市街地から今の275号線を途中で左折してペンケに向かう道)を逆走する形で進んでみた。この道は昔、鷹泊市街地から遠足で歩いた、あるいは神社のお祭りに参加するべく自転車をひっしに漕いでペンケ神社へ向かった道である。もちろんペンケの人にとっては通学路、生活路であった道である。
写真はペンケの農家と山並み
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜の開花はまだでも、辛夷(こぶし)はきれいに咲いていた

2010年07月21日 | Weblog

幌加内方面から引き返し、鷹泊に向かった。この国道275号線のカーブを猛スピードで突っ走るライダーに遭遇した。交通量は少ないが、危険を感じる道でもあった。
国道の周囲を見渡すと、桜は咲いていないが、辛夷が所々で白い花をつけていた。
辛夷は「種まき桜」ともいわれている。農作物の種まきの時期の目安にされてきた、農作業のタイミングをはかったとされる花である。なるほど、農山村の鷹泊では、辛夷の花の開花と田植えの準備と時期が一致しているように思えた。 


写真は帰りの国道275号線(上)と林の中で白さが映える辛夷の木(下)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学生帽と鷹泊小学校校章

2010年07月19日 | Weblog

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

振興局と教育振興会

2010年07月16日 | Weblog
振興という表現での連想パート2。個人的には、振興ということばは、昔の賞状にあった教育振興会を思い出す。村内競技大会、美術展などでの賞状文の内容は、「賞状 右は頭書の成績を収めたので茲に之を賞します。◯月◯日多度志村教育委員会・多度志村教育振興会」とあった。
今はあまり聞き慣れないが、教育振興会とは何だったのだろう。ノートなどの賞品をくれる団体かなと子供心に思ったりもしていた。
それにしても賞状授与時の文は、「頭書」とか「賞する」とか「以下同文」とか、小学生にはわかりづらい表現のオンパレードである。当時の◯◯校長先生は、生徒にわかりやすい表現でと、賞状の読み上げで、2位以下の賞状授与時に通常使われる「以下同文」というくだりを「あと同じ」と読み上げていた。わかりやすいけれどなんか変だなと、生徒間で苦笑していた。なつかしい思い出である。

写真は多度志村教育振興会の表記がある50年前の賞状
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

振興局と教育振興機構

2010年07月14日 | Weblog
支庁から名称変更した振興局という表現からの連想のパート1。
振興とは盛んにするという意味で、何かと使われる言葉であるが、従来の支庁よりいいづらい名称になってしまったように思う。
最近のニュースの中で国立青少年教育振興機構というところが、子供の頃に自然体験が何度もある人は、意欲が高く、「何事も最後までやりとげる傾向にある」と手前味噌的コメントを出しているのが目にとまった。
このコメントを、自然体験が日常的であった昔の鷹泊に当てはめると、「鷹泊で幼少時期を過ごした者は、意欲が高く、何事も最後までやりとげる」というふうに置き換えることが出来る。時代も関係しているが、都市部で生活している最近の子供達を見ていると、鷹泊での自然豊かな中での生活は確かに役立っていると思う。

写真は木々に囲まれた雨竜川、右奥に坊主山が見える
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鷹泊が空知の頂点に立った日

2010年07月12日 | Weblog
鷹泊が空知の空知の頂点に立った。
平成22年4月1日、北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例が施行され、今までの支庁という呼称から総合振興局へと名称変更が行われた。
鷹泊の属する空知支庁は空知総合振興局になった。同時に鷹泊の北にある幌加内町が空知から上川へ移動することになった。
今まで空知支庁は、幌加内町が鳥の首のように細長く南北に伸び、空知支庁の縦長の形を際だたせていた。
 
上の図(上川へ移行した幌加内町)
今回の改編で、鷹泊から見ると、鳥の首というか頭の上の帽子がとれた感じのように見える。 
この結果、鷹泊の位置の説明はしやすくなった。今までだと、「鷹泊って、どこにあるのですか」と尋ねられた時、深名線の中間くらいにある町とか、深川から北にすこし行った所とか、適切な説明が難しかった。今後は、鷹泊は空知のてっぺんにある地域ですと胸張って(?)いえることになった。
下の図は空知総合振興局(鷹泊をふくむ深川市が紫色)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半世紀ぶりに沼牛貯水池堰堤(下幌加内ダム)に到達

2010年07月09日 | Weblog
幌加内峠から直接浅羽山は見えなかったが、近くにまで来たという満足感は得られた。そのまま峠を幌加内側に降りていくと、左方にきれいな沼があった。正しくは下幌加内ダムというようだ。
その昔、沼牛貯水池堰堤への遠足で、幌加内峠を超えて歩いてきたことがある場所だ。当時は幌加内峠への道は未舗装で、つづら折りの峠越えの道をよく歩いたものだ。やっとたどりついても、当時の印象としてはこれといったものもなく、感激が薄かった。遠足に、よくこんな所を選んでくれたものだと不満をいった記憶がある。
今こうして眺めると、車を止める人もいないようだが、なかなかの場所に思えた。

写真は沼牛貯水池堰堤(下幌加内ダム)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする