不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

雨竜川横の「現場」の思い出

2016年11月29日 | Weblog

写真上は堤防から川の方へ降りる道。写真には写っていないが、この左下にゴミ捨て場と沼があった。

昭和30年代、中鷹部分の堤防を川の方へ降りたところに沼があり、その周囲はゴミ捨て場であった。空き缶などが大量に投げ捨てられ山のようになっていた。その沼にはフナやウグイが棲んでいて、釣りをしたこともあったが、跡形もなく消滅していた。ゴミもきれいになくなっていた。あのゴミの山はどうなったのだろう。昭和40年代には廃棄物処理法などができたので、全部埋めてしまったのだろうか。

写真の左側に「現場」があった。堤防の右側は上鷹にあたる。右奥に浅羽山が見える。

 

ゴミに周辺を囲まれたその沼の少し上流側にもうひとつ小さな沼があった。そこは当時「現場」と呼んでいた。砂金掘りの跡だったのかと思っているが、はっきりしない。しかしそれ以外には見当はつかない。雨竜川と昔つながっていたのか、その「現場」では比較的大きなフナやウグイが釣れた。また、それほど深くなかったので、その沼に素足で入り込み、足の感触でカラス貝を採って河原で焼いて食べたりした。 深いところでも1メートルもなかったと思う。まだ残っているか気にはなったが、草が丈高く生い茂っていたので確認しには行かなかった。

この「現場」とは違うが、鷹沼橋より上流部分、ちょうど第二水泳場付近にあった「現場」には魚はおらず、子供達にとっては水遊びに最適の場所であった。

 個人的には、犬かき泳ぎではあるが、泳ぎを覚えた場所として「現場」を懐かしく思い出す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨竜川の周囲はどこも昔に較べて木々が生い茂っていた。

2016年11月27日 | Weblog

中鷹の元細田さん宅の横の道を通り、堤防に行ってみた。

ここも、鷹泊橋付近の堤防と同様に舗装工事の真っ最中であった。

下の写真は舗装工事がもう少しで完了すると思われる、中鷹部分の堤防。

雨竜川の向こう岸には今はもうないが、金比羅神社があった。金比羅神社付近の雨竜川は水深がありそうで、いかにも魚が釣れそうに思えたが釣れたためしがなかった。このあたりの雨竜川は、学校で定めた川泳ぎが許可された第三水泳場があった場所でもある。川の中程に大岩、小岩があり、この間を泳いだものだった。もちろん鷹泊ダムが放水を調節していたはずなので、水量が少ない安全な日を選んでのことである。

写真下は昔に較べて木々が生い茂っていて直接雨竜川を見ることができない、元の第三水泳場付近。

手前の萌黄色の木々が、川の手前に生えているヤナギ。奥の濃い緑の木々が向こう岸の松の木。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代の中鷹のことを思い起こして

2016年11月25日 | Weblog

中鷹には昭和36年当時、29 戸 140人が暮らしていた。

中鷹と下鷹との境界は、床屋の高橋さんの前にある青年会館へ続く道だったと思う。すなわち中鷹は、高橋理髪店から上鷹との境界にあたる消防番屋と当時の郵便局までという区分になる。

中鷹は市街地の真ん中であり、29戸の戸数の割に店が多かった。床屋さんの他に、農協、食糧事務所(米の等級を調べる所)、萩浦製鉄所、松澤商店、自転車屋を兼ねた三浦鮮魚店、精米所を併設していた弘田商店、高岩商店といくつかの店を思い出す。もっと店はあったかのもしれない。馬具と皮製品の貞安さんもあったが、途中で引っ越してしまった。

鷹泊小学校の前身にあたる大祥寺は中鷹の中央部に存在した。

そもそも、上鷹・中鷹。下鷹・南鷹という市街部の区分は、人口が多かった時代の分け方であり、人口減でそのうちに鷹泊町内会と駅前町内会の二つに統合され、最近は鷹泊町内会だけになったと聞く。このブログでは便宜上、昔の分け方を使うことにする。

写真は堤防から見た中鷹付近の現在の家並み。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上鷹のことを思い起こして

2016年11月23日 | Weblog

上鷹には昭和36年の時点で、36 戸 157人が暮らしていた。

上鷹と中鷹との境界は駐在所と消防番屋あたりだったと思う。駐在所が中鷹なのか上鷹なのかはわからない。ともかくその境界線より北側が上鷹ということである。もちろん学校も含まれる。学校へ向かう道の左右にも家が並んでいて、一番学校の近くが校長宅であった。

上鷹に属する店は中森製鉄所、桜沢米穀店、宮部商店、大塚豆腐店、田中製材所といったところか。どこか抜けている気もする。魚屋さんがあったが途中で引っ越してしまった。店以外の家も含めて、何軒の家を思い出せるか頑張ったが、36軒中の20軒も思い出せなかった。

当時の思い出として、テレビのことがある。昭和30年代早々鷹泊でテレビを買えたのは数軒の主に商店だけだったが、テレビが見たくて迷惑を省みずに夕方には子供達がテレビのある家に何人も押しかけ、上がり込んで見せてもらった。その中で、桜沢米穀店には一番押しかけたように思っている。感謝に堪えない。

写真は上鷹から南方向、元鷹泊市街中心部をのぞんで。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活気のあった昭和30年代の鷹泊の人口は?

2016年11月21日 | Weblog

活気のあった昭和30年代の鷹泊の人口

昭和30年代の鷹泊は、今振り返って見ると、貧しいながらも人が多かったことで活気があった。人が多かったといっても、実際どれだけの人口だったのだろうか。学校の生徒数は1学年30人前後だったが。

町史によると、昭和28年と36年の各の戸数と人口は以下のごとくである。

     昭和28年度     昭和36年度

      戸数   人口        戸数 人口

南鷹    42  227             34   142

下鷹            40  199             33   151

中鷹            29  150             29   140

上鷹            40  225             36   157

ペンケ        22  135             19   118

ヌップ        82  466             42   205

竜水                 -     -                 46   231

計       255   1402                   239   1144

 

※ なお昭和28年度のヌップの数値は竜水をも含んでいる。

記憶力の衰えは如何ともしがたく、例えば昭和36年の南鷹34戸のどれだけを思い出せるか、試みたが20戸程度しか思い出せなかった。加齢の影響もあるが、さすがに50年も年月が経てば、それがあたりまえかとも思う。

現代は、特に都市部では隣に誰が住んでいるかもわからない。記憶以前の問題である。

写真はソバ畑越しに、リフレッシュプラザ鷹泊と神社の森を見た風景。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鷹泊神社に来てみると、スキーのことを思い出す。

2016年11月19日 | Weblog

神社は一般に、俗世と隔絶するため、また天に近いようにと高い所に設けられていることが多い。高い所にある神社への参拝は、高齢化社会では大変だが鷹泊神社も高い所にある。

ということで鷹泊神社はスキー滑走に適していて、よく神社でスキーに乗った。正面の坂は、昔は階段ではなく土の斜面だったので、初雪が5cmも積もれば即、スキーができた。しかし今は、階段になっているので、今の鷹泊に子供がいても、階段が隠れるくらいの降雪があるまでスキーはできない状況ではある。

神社は正面の坂だけでなく、神社の裏斜面も木々の間をぬってスキーができた。冬には、他にすることもなかった時代であり、スキー好きの子供達が集まってスキーを楽しんだ。

豪雪地の鷹泊でのスキーの場所は、本格的なスキー滑走は永井山であったが、周囲が山で囲まれているので、どこででもスキーはできた。神社と永井山以外では、お大師山、焼山、おにぎり山、イノシシ山、さらには堤防でも楽しめた。

写真は鷹泊神社の境内から下の鳥居方向を見た風景。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鷹泊神社で思い出す秋祭りの光景

2016年11月17日 | Weblog

昭和30年代の秋祭りは鷹泊神社発着で、幟を持った子を先頭にして子供神輿が鷹泊市街地を練り歩き、立ち寄り先では、神輿をワッショイワッショイと元気よく担いで祭り気分を盛りあげた。といっても、子供達は数カ所の立ち寄り先では神輿をかつぐものの、途中はオート三輪の荷台に乗って移動した。(鷹泊にやっと車が走り始めた時代だった。)

幟には御嶽神社と書いてあった。鷹泊神社との使い分けはよくわからないが、昔は御嶽神社といい最近は鷹泊神社と呼ぶようになったのではと思う。駅前の道と市街地道路が交差するあたりには五穀豊穣と書いた行灯がつり下げられ、家々の軒先には花飾り(青く染めた細い竹の棒に紙製の紅い花が何個かついているもの)が何本も飾られていた。軒花(のきはな)というらしい。これは町内のけがれを払うとか、稲穂に見立てて収穫を感謝するという意味合いもあるそうだ。

都市部では祭りの時に軒花を飾るような風習はあったのだろうか。何となく田舎っぽい感じがした鷹泊の秋祭りの光景だった。子供神輿は、じきになくなったと思うが、お祭りに軒花を飾ることはずっと続いていたように思う。

写真は鷹泊神社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神社の森の山桜♪」の歌を思い出しながら鷹泊神社へ。

2016年11月15日 | Weblog

信仰心とは関係なく、子供時代によく遊んだ場所として、その当時の面影を残す場所として、鷹泊神社をはずすことができないので今回も来てみた。

鷹泊神社は、学校とは位置的に近く、応援歌にも歌われていた。

昭和30年代に、運動会などで歌われていた鷹泊小中学校応援歌の2番の歌詞はこうであった。

 ♪神社の森の山桜 咲いて匂うて うららかに 花吹雪した あの庭で 励み鍛えた我が腕(かいな) 試すは今日ぞ この庭ぞ 奮えや奮え 我が友よ♪

応援歌の一番の始まりの「♪浅羽の山の嶺かすみ♪」と同様に、二番の「♪神社の森の山桜♪」も昔はよく歌われたので、誰もが覚えた歌である。鷹泊小学校60周年(昭和37年)で、やっと校歌ができるまでは、校歌の代わりにもなっていた。

正面の坂の階段を登っていった。階段ではなく土の斜面だった昔とは雰囲気が違っていた。

階段を半分登ったあたりにある境内には、昭和30年代には大きなナラの木があった。秋には、その樹に付いているドングリに石をぶつけて落として集めたりした。土俵があったスペースもなくなり雑草に覆われている。

写真は鷹泊神社と境内にある石碑。

昔から、この石碑の存在に気付いてはいたが、気にとめたことはなかった。よく見ると、入地記念碑 昭和16年5月建立とある。明治時代に鷹泊へ入地したことを記しているとされるが、刻まれた字はほとんど判読できなかった。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スキー場のあった永井山の麓で思い出すこと

2016年11月13日 | Weblog

写真は永井山への登り口。木々が生い茂っている左の奥に永井山のスロープがあった。

ずいぶん木々の高さが増していて、昔と風景が大きく異なっている。50年も経てば樹が高さを増すのはあたりまえではある。

あの時代、永井山スキー場へは、小高い丘陵地を登ってからゲレンデの下に到着した。小高い丘陵地にはほとんど樹は生えておらず、どこを通ってもスキー場へ行けたので、最初の人が歩いた人の足跡が、その日のスキー場への道になっていた。通常はゲレンデの下までは、スキーを脱いで肩にかついで雪道を一歩一歩上っていった。帰路はもちろん、スキーに乗って行けるところまで滑走した。

学校には、熱心なスキー上手の先生がいた。そのうちの一人、𠮷 ◯耕 ◯先生は、先日の「ふる里鷹泊会」にお元気で参加されていた。昭和30年代前半は、日曜日にはたくさんの子でスロープは埋まっていた。30年代後半はスキー場に集まる児童・生徒は急に少なくなってしまった。まだ生徒数がそれほど減っていない時期なので、指導する先生の異動の影響もあったのかとも思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井山の麓へ来て思い出すこと

2016年11月11日 | Weblog

永井山付近に来てみた。当時子供だった者としては、永井山はなんといっても、スキーを楽しんだ山である。

永井山は二つあった。本格的なスロープの永井山スキー場とは別に、向かって左手前にあった小山は、小学校低学年以下がスキーを楽しむ場所であった。

しかし、開墾でその小山を水田に改造したため、スキー滑走には不適切な山に変わってしまった。直滑降でうまくスピードに乗れば、山の下にあるお墓まで到達できるのが楽しみだった。スキーができない山に変わってしまったのは、子供としては残念だった。

当時は小学4年になると、上にある永井山で滑れるという暗黙の基準らしきものがあり、初めて上の山でスキー滑走デビューしたときはうれしかった。

写真下は水田に改造され、階段状になっている、小山の斜面。右方向から左へ傾斜していた。

写真下は永井山の下にある墓地。右方向にある小山の頂上から滑走し、うまくいけば、丁度お墓まで到達できた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする