鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

 今は閑散状態の中鷹地区。お寺跡には建造物ができていた。

2024年02月29日 | Weblog

写真で示した苗圃へ向かう直線の景色は静寂な別世界のような雰囲気を感じる。昔は途中に踏切があったが、この直線道路突きあたりを左に行くと苗圃があった。林業が盛んだった鷹泊で、植林のための樹の苗木が植えられていた。

中鷹にはお寺(大祥寺)があった。

公園のなかった鷹泊では、お寺前の広場は子供たちにとっては公園代わりだった。盆踊りの会場としても使われていた。たくさんの子供、大人で賑わっていた昭和年代の盆踊りがなつかしい。

写真上は青年会館があった付近からお寺跡を実たもの。数本のマツの樹がお寺であったことを思い出させてくれている。

驚くほど閑散状態の鷹泊のお寺跡に、前回訪れた時にはなにか転造物ができつつあるところだった。なにができるのだろうかと思っていたが富岡産業関連と思われる建造物ができあがっていた。

写真上はお寺跡にできていた建造物。

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下鷹と中鷹の境界部にやってきて思い出すこと

2024年02月26日 | Weblog

写真は床屋の高橋さんの前から青年会館方向に向かう道。

別方向からの写真。白い建物の所を右折した先に、青年会館や踏切や苗圃があった。

下鷹と中鷹の境界に床屋の高橋さんがあった。当時、坊主頭の子は自宅でバリカンを使って頭を

刈ってもらっていたのかもしれないが、私はそうでなかったので、少なくとも10年以上にわたって床屋さんのお世話になった。子供料金は100円だったと思う。

青年会館はその当時、青年団の集会場的な場所だったと思うが、映画上映がよく行われていた。昭和30年代は映画が全盛期だったが、映画館がなかった鷹泊では、青年会館や学校体育館が上映場所として使われていた。いつぞや、青年会館で動物のサーカスが開かれて、授業の一環として、学校から皆で歩いてサルの空中ブランコなどを見せてもらったことを覚えている。今はその場所は跡形もない。

青年会館の近くには魚釣りによく行った沼があった。フナやウグイがよく釣れた。その沼も土地改良で水田に変わり、今は畑作地になっているようであった。

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昭和30年代を思い起こしながら下鷹地域を散策

2024年02月20日 | Weblog

下鷹には明らかに居住者のいる家が数軒あった。花卉栽培のビニールハウスもあったが、訪れたのが11月だったので、ハウス内で花は咲いていないようだった。

我が家もその昔、このあたりにに住んでいたので、ここを歩くといろいろと昔のことが思い起こされる。

鷹泊郵便局

昔、お寺があった付近から下鷹方向を写した写真。家はほとんどない。右手遠くに郵便局がある。

下図(鷹泊入植120年記念誌を引用した昭和40年頃の下鷹)でもわかるように、商業施設といえる坂田商店(昭和30年台前半」は大原商店)、牧野旅館、吉田薬店もこの下鷹にあった。

今の郵便局がある位置は中鷹との境界に近い下鷹に属する位置にある。人口激減の今、どれだけの人が郵便局を利用するのだろうかと思ってしまう。

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下鷹地域を散策中にJR深名線バスに遭遇

2024年02月16日 | Weblog

写真中央のレンガ色の家の右隣りにバス停(鷹泊待合所)がある。

旧鷹泊駅前通りを境界として、その南側が南鷹で、北側が下鷹であった。

 昭和30年代には中村さん、山下さん宅があった付近にJR深名線バス停(鷹泊待合所)がある。時刻表を見ると上下線あわせて1日14便が走っている。

タイミングよく、深川方面のJR深名線バスが通過した。思わずシャッターを押した。乗客は誰もいないように見えた。

ウーン。なんともいえない気分になる。幌加内が始発であるが、少なくとも幌加内・鷹泊間で乗降する客はいなかったということである。

JRが提案した、鉄道深名線を廃止してバス路線に変換する案を地元自治体が受け入れる条件として、運行本数とか交渉過程でいろいろあったと思う。しかし、これほど人口減が進むとは想定外だったのではないだろうか。バスを利用する人がほとんどいなくても、公共交通をなくすわけにいかないだろうし、どこの過疎地でも難しい問題ではある。

下の写真は乗客ゼロと思われる路線バス。

 

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南鷹の昔と今

2024年02月13日 | Weblog

写真は国道275号のT字交差点から南鷹全体を写している。建物は富岡産業関連のものだけで、左の道は旧鷹泊駅方向。

鷹泊駅前通りを境として、それより南が南鷹であった。(居住者が多かった時代、鷹泊は南鷹、下鷹、中鷹、上鷹、竜水、ヌップ、ペンケに分けられていた)南鷹には鉄道官舎の長屋を含めて多くの家があった。駅前通りの中ほど左側には富岡商店があり、店の前に広い空間があった。今なら駐車場として当たり前だが、まだ車はほとんどなかった時代であり、どうしてあのような空間があったのかはわからないが、子供の遊び場でもあった。

昭和28年の南鷹は戸数42、人口227であり、多くの人が暮らしていた。時は流れ、今は富岡産業関係の建物だけになっている。

鷹泊入植120年記念誌に記載されている昭和40年頃を表わす『广泊市街案内圖』には南鷹には数えてみると29戸表示されている。

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鷹泊駅前通りは鉄道深名線が廃線になっても、道道693号鷹泊鷹泊停車場線という堂々とした名前が残っている。

2024年02月08日 | Weblog

 

上の写真は旧鷹泊駅からまっすぐ正面の道(道道693号)を写したもの。正面突きあたりの道は国道275号。

 

写真は反対方向。国道275号のT字路から駅舎方向。突きあたりのやや右奥に旧鷹泊駅舎がある。

昔と較べて、道の舗装・未舗装の違いはあるが、当時の雰囲気は残っている。

Wikipediaによると、この道は道道693号鷹泊鷹泊停車場線といい、1971年(昭和46年)制定、起点鷹泊貯水池 終点旧鷹泊駅。路線延長5.6kmとある。

鷹泊駅からダムまで5.6kmの距離なら、学校からダムまで昔は4kmと思い込んでいたが、それは正しかったと思われた。鷹泊市街地入口から発電所まで7.kmという前述した表示板はちょっと違うのでないかとあらためて思う。

昭和34年にメートル法が完全実施されるようになったが、その当時子供たちの間でも小学校から鷹泊ダムまでは1里(3.927km)という表現が主体だった。そのうち4kmということが多くなったはずである。遠足でダムまっで歩く時も、時速4kmで歩いて約1時間ということで非常にわかりやすかった。

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鷹泊駅跡から周囲を見渡して

2024年02月05日 | Weblog

写真は中央部に三号沢への道、その右側の小高い山が焼山。

 

鷹泊駅舎そのものが、昔の鷹泊を知る者にとっては、歴史的建造物であるが、ここに立って四方を眺めるといろいろと昔を思い出させてくれる。

南方向にある木が茂った山はイチゴ狩りに行った旭団体への近道。東南方向には昭和30年代前半にはスキーをする子供達で賑わった焼山。東には炊事遠足に行った三号沢。

駅の隣には、農協倉庫が変わらずに残っている。

駅舎の近くの少しくぼんだところに鉄道官舎があった。今は整備されて平地になっている。

同級生の親が駅長だった時に、鉄道官舎の駅長の家でよくテレビを見せてもらった。

昭和30年代前半は、テレビのある家は商店などに限られていた。その後徐々に一般の家でもテレビが見られるようになり、昭和39年(1964年)の東京オリンピックは自宅や、学校で見ることができた。柔道、レスリング、重量挙げ、女子バレー等は60年経った今でもよく覚えている。2021年の東京オリンピックは誰が金メダルをとったとかの記憶にあまり残っていない。今年2024年はパリオリンピックだ。

変わらぬ姿の農協倉庫。

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