鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

戸数減で、鷹泊町内会は一つに統合

2015年02月09日 | Weblog
昨年(平成26年)から町内会 鷹泊、竜水、ペンケと3つに分かれていた町内会が鷹泊町内会へ統一されたとのことが、昨年の鷹泊ふるさと会で報告されていた。トータルで30数戸になっているのだから、やむを得ないこととは思うが、淋しいことだ。半世紀前は、市街地だけでも、南鷹、下鷹、中鷹、上鷹に分かれ、それぞれ町内会があったのに。

 
写真左は、昔の中鷹でお寺があった付近の空き地。写真右はその反対側で、堤防の奥のゴミ捨て場へ続く道(第三水泳場へ続く道ともいえる)。道の左は昔、細○さんがあった空間。

過疎化が更に進行中の鷹泊の国道沿い

2015年02月06日 | Weblog
それにしても、国道沿いの家が少なくなっているのに驚く。その昔、農協があった付近に、お店が一軒あって、給油所が隣接しているが、その南側は(途中に廃屋が一軒あるが)郵便局まで人家はなくなっていた。数年前に鷹泊を訪れた時に、庭先の花がきれいだった家も、廃墟になっていた。
写真は、鷹泊唯一のお店と、数年前は家の周りにきれいな花が咲いていたが、いつの間にか廃屋になっていた家。

 

昔の先生達は大変だった鷹泊小中学校の勤務

2015年02月04日 | Weblog
前回、薪暖房のことを記載したが、昭和30年代前半は、薪ストーブが活躍していた。暖房だけではなく煮炊きも薪ストーブで行っていた。そのうち煮炊きにプロパンガスが使えるようになり、暖房は薪から石炭に変わっていった。薪を燃料にすると、煙突に真っ黒い煤がたまり、煙突掃除が大変だった。今なら、どこの家庭も温かい暖房で冬を過ごしているが、酷寒の鷹泊勤務は、大変だっただろうと思う。
過酷といえば、学校の宿直業務も大変だったろうと想像する。人のいない夜の学校は怖い。学校体育館で夜に映画会が開催されたときに、トイレに行くのが非常に怖かった。人がいても怖いのに、誰もいない校舎(隣には用務員の宿舎と隣接してはいたが)のあの端の部屋で宿直するのは、どうみても心臓によくないはずだ。公立学校の宿直制度は昭和40年代に廃止されたそうだ。


写真は鷹泊小学校記念誌から転載した、鷹泊小学校体育館。宿直室は左隣で、校舎の南端にあった。

半世紀前の学校の先生の住まいの思い出

2015年02月02日 | Weblog
学校の門のすぐ前にあった校長先生宅は別にして、半世紀前は、地元鷹泊の出身で自宅から通勤していた先生が一番多かったと思う。汽車通勤の先生が数名で、下鷹にあった牧野旅館を宿舎にしている先生が一人だった。
教員住宅がなかったわけではない。二階建ての教員住宅は、S君の家と農協との間にあり、古い建築物であった。
オンボロ住宅で、隣に高い木が生えていたこともあり、よけいにお化け屋敷のような雰囲気をかもし出していた。
当時担任だったT先生は、卒業後間もない女の先生で、汽車通勤していたが、冬場には汽車通勤がたいへんだったのか、その教員住宅を使用した年があった。当時、学校は石炭暖房であったが、一般住宅はまだ薪暖房主体であった。冬が来る前に、燃料を自分で調達しなければということで、竜水の同級生宅から薪を購入して馬車で運搬した。
小学校低学年ではあったが、手伝いするのが嬉しくて、多くの級友とともに馬車に積まれた薪を腕に抱えて、二階まで運んだ。
昭和33年秋のことだったと思う。そのT先生をお迎えして昨年9月に同期会を開いた。楽しい薪運びの思い出から、計算すると56年の歳月が経過していた。


写真は、竜水にあった、薪の調達先のクラスメートの家があった付近を望んで、西から東方向を写した。中央に見える木立は金比羅神社があった場所。