写真は昔の鷹泊小学校校舎 (鷹泊小学校記念誌から転載)
鷹泊小学校校歌 昭和37年制定(鷹泊小学校記念誌から転載)
校歌 歌詞
一、
雲ながれ行く 浅羽山 かげろう燃ゆる 黒土や
故郷の地に 明けくれを 学ぶ 我等に 光 あり
二、
雨竜の川の せせらぎに 花ひらく里 豊かなる
希望は 高く香に におう はげむ心に 陽ははゆる
写真は昔の鷹泊小学校校舎 (鷹泊小学校記念誌から転載)
鷹泊小学校校歌 昭和37年制定(鷹泊小学校記念誌から転載)
校歌 歌詞
一、
雲ながれ行く 浅羽山 かげろう燃ゆる 黒土や
故郷の地に 明けくれを 学ぶ 我等に 光 あり
二、
雨竜の川の せせらぎに 花ひらく里 豊かなる
希望は 高く香に におう はげむ心に 陽ははゆる
写真は、ソバ畑越しに鷹泊駅、農協倉庫、リフレッシュプラザ鷹泊を見た風景。中央はるか遠くに坊主山が見える。
ここ数年、鷹泊を訪れては、これが最後の鷹泊かもと思いつつ今回もまた来てしまった。
鷹泊の地に立ち、あちこちをゆっくり散策すると普段(鷹泊を離れているとき)は脳裏に浮かばない遠い日の鷹泊での記憶、思い出の数々がよみがえってくる。
全ての面で、昔と今とでは大きく変化している。しかし変わっても、ふるさと鷹泊に来てみると必ず、思い出すことや新発見やら、何かを感じることができる。
このブログはその時のことを少しずつ思い出しながら、ちょうど今年は鷹泊入植120年の年でもあったので、鷹泊の歴史にも焦点を当てて、昔の記憶と重ね合わせて綴ってみた。8月からほぼ一日おきに続けてみたが、ちょうど年末になり区切りがいいところで、今回の鷹泊紀行を終わりとします。
読んでいただいた方には感謝いたします。
当ブログの今まで。
第1部 平成19年11月22日〜平成20年4月9日
第2部 平成22年5月18日〜平成22年10月25日
第3部 平成24年10月20日〜平成25年3月18日
第4部 平成26年10月22日〜平成27年2月27日
第5部 平成28年8月4日〜平成28年12月30日
レールがはずされ道路のようになっている線路跡を歩いて昔を思い出してみた。
線路に入ることなどありえない今とは違っていた。駅から学校へ行くにも、鉄道線路の路肩部分を通ると近道になっていたが、そこを歩かないようにとの指導があってやっと歩かなくなった。
鷹泊には鉄道の踏切が二カ所あった。苗圃への道と三号沢水源へつながる道である。
写真上は、鉄道跡と交差している苗圃への道。写真下は三号沢水源へつながる道。
三号沢水源方向への踏切は、遠回りするようにU字型の道がついていた。つい近道を通りたいとの誘惑に駆られ、冬にはスキーをはいて近道横断をしていた。
写真は、踏切がよくわかる航空写真(深川開基100年記念誌の写真から編集)。右下に見えるのが、三号沢水源方向への道。
秋にはヤマブドウを採りに周辺の山、特に二号沢付近にはよくいった。線路の路肩を歩きながら赤く色づいたブドウの葉を目印に探した。線路からは、ブドウのあり場所がよく発見できた。二号沢の鉄橋は怖くて渡れなかった。50メートル位の長さの鉄橋を渡っている時、汽車が来たらと思うとぞっとする。今振り返ると、雨竜川での水泳も危険であり、事故に遭遇しなかったのはラッキーであった。
そういう危険と隣り合わせではあったが、開放的に過ごせた鷹泊での昭和30年代はすばらしい時代だったと思っている。
写真は学校跡にできたリフレッシュプラザ鷹泊。その右手は深名線の線路跡。
教育現場での大事件であり、当時の学校関係者はよく覚えていると思われるが、その内容は以下のようである。
鷹泊中学校生徒列車事故とは、中学校の体育授業の際の事故である。学校の線路をわたった裏手にある「お大師山」でのスキー授業の帰りに線路(路肩部分?)を通っている時に、たまたま通過した貨物列車にスキーやストックを巻き込まれ、十数名が重軽傷を負った事故である。
貨物列車の通行は想定外であったのと、降雪期は周りが雪の壁で逃げ場がないという豪雪地域の鷹泊ならでのアクシデントでであったと思う。
もちろん、踏切ではない場所から線路に入ること自体が今では許されない危険行為である。
個人的には、学校の線路をわたった裏手にある「お大師山」に何回かはスキーに行ったことがある。スキーを一旦はずして雪の壁を降り、線路を横断してから雪の壁をまた上ってからスキーを再装着してからお大師山の斜面を滑って遊んだ。
列車事故以後は、線路を渡らざるを得ないお大師山でのスキー授業は中止されたようで、距離的にはだいぶ遠いが、永井山をスキー場として整備したのではないかと想像する。
写真は学校の跡地利用でできたリフレッシュプラザ鷹泊の建物と深名線の線路跡を駅の方向から写したもの。線路跡はサイクリングロードのように幌加内に向かっている。
この鉄道跡を眺めていると、昔の鉄道の記憶がよみがえる。冬場は、列車の運行が不安定になるので、列車が来る幌加内方向を駅のホームからずっと見ていて、列車の姿を学校脇の木々の間に確認するとほっとしたものだ。
学校脇の鉄道のことで思い出すのは、忘れてしまったほうがいい出来事かもしれないが、昭和32年2月に起きた鷹泊中学校生徒列車事故である。
鷹泊中学校は昭和45年に多度志中学校に名目統合、昭和47年に実質統合されて鷹泊から中学校はなくなった。2年前には、その多度志中学校も深川一已中学校に統合されている。それゆえ、なくなって久しい鷹泊中学校での出来事である。
記憶をたぐり寄せると、あの日、駅から学校の方向に向かって「○○先生が汽車にひかれた!」と雪道を血相を変えて走って行く女の先生の姿を遠い日の記憶として思い出す。結論として○○先生は無事であり、事故発生時は誰がどのような事故に遭ったのかの情報が錯綜していた。私は小学1年だったので、かすかな記憶しかないが、当時の鷹泊に住んでいた人々を震撼させる大事件だったと思う。
事故の内容は新聞にも載ったようであり、後々になってその詳細を知ることができた。
写真はソバ畑越しに眺めた、旧鷹泊駅と農協倉庫(白い屋根の建物)
駅の近くにある農協(JA)倉庫は、いつ造られた建物なのだろう。驚くほどしっかりと昔の姿のまま残っている。木造の鷹泊駅の建物がかなり危なくなっているのに較べると違いは歴然である。
豪雪地域の鷹泊の積雪量は2〜2.5メートル位だと思うが、累積降雪量は多い年は20メートルにもなるとされる。3月頃には、降り積もった雪と屋根から落ちた雪で、背の高いこの農協倉庫にもハシゴなしに屋根にのぼれるようになる。トタン板で覆われた屋根の上で遊んだり、積雪の多かった年は、その屋根から下へのスキー遊びも出来た。
現在この倉庫が使用されているか定かではないが、外見から見て使える状態で残っているということは稼働していると思われる。
その倉庫の近くに宇佐見製材所があった。
宇佐見製材所の前にはたくさんの丸太が積まれていて、樹の皮むきをしていた光景をよく見た。製材所は製パン業も兼ねていたのがユニークであった。
鷹泊の木材輸送の歴史を考えると、雨竜川を使っての輸送と鉄道を使っての輸送があったので、駅の近くにあった宇佐見製材所と神社の近くにあった田中製材所の存在は勝手な解釈かもしれないが丁度いい場所にあったと納得できる。
写真は南鷹と下鷹との境界線にもなっていた鷹泊駅前通りの今。突きあたりにあるのが、旧JR深名線鷹泊駅舎。
鷹泊駅は大正15年に開業されたが、平成7年9月3日で深名線廃線とともにその役目を終えた。深名線の目的は、人の輸送以外に貨物輸送があった。しかし、産炭地での石炭産業の衰退と同様、深名線地域での林業の衰退による物資輸送がなくなったことが、深名線廃線を速めたように思える。
鷹泊駅の昭和36年度1日平均乗車数は168人、降車数は164人というデータがある。当時、鷹泊から深川の高校(東高、西高、農高)へ汽車通する人数は3学年で50人くらいだっただろうか。深名線の奥のほうから通学する生徒も多数おり、 通学列車は超満員だった。ともかく、深川へ行くには深名線の鉄道以外はなかった時代だ。
鷹泊駅の手前の1番ホームは朱鞠内行きで、線路を渡った2番線が深川行きで、2番線の反対側の3番ホームは貨物列車が使用していた。
昭和34年だっただろうか、鷹泊居住の人を対象として臨時海水浴列車が運行され、多くの家族が参加した。SL列車で鷹泊駅を出発し、深川駅の4番線からそのまま留萌線に入って留萠まで行き、留萠の海での海水浴を楽しんだことがある。今だとバスでの海水浴ツアーということになるが、当時道路は舗装されておらず、車やバスで留萠へ行くのは考えづらい時代だった。
写真は道路のように見える線路跡から南方向を撮影したもの。駅舎は右の木の陰で見えていない。
鷹泊駅は鷹泊に来ると必ず立ち寄りたくなる場所だ。平成7年(1995年)9月3日の深名線廃線後も駅舎は残されているので、鉄道ファンなどはそれなりに訪れているようだ。廃線後20年以上が経過し、駅舎本体は風雪に耐えて何とか持ちこたえているが、駅トイレ(便所)は、無残にも崩壊していた。「形ある物、いつか壊れる」というフレーズを思い浮かべる。駅舎もそのうちに同じ運命をたどる日が来ることを考えると寂しくなる。
写真上は現在の鷹泊駅。下の写真は駅舎の隣にあったがついに崩壊していた駅のトイレ。
写真上は、4年前に撮影した鷹泊駅舎と右隣にある駅のトイレ。トイレは壊れる寸前ではあったが形状をとどめていた。
南鷹は駅前の道路より南側の地区である。
南鷹には、昭和36年の時点で 34 戸、142人が住んでいた。
しかしながら、南鷹にあった店は富岡商店1軒だけだったと思う。富岡商店は、大きな家屋敷と店の前の広いスペースが記憶に残る。車社会の昨今なら、客用の駐車場としてあたりまえだが、当時はどうして店の前に広場があるのだろうと思っていた。商店はなくなって久しいが、富岡産業(株)としてずっと土建業を営んでおられ、南鷹部分の建物の多くが同社のもののようだ。
しかし、花卉栽培のビニールハウスもあり、他に住んでいる方もいるようであった。
写真上は富岡商店と内◯さんの間にある南へ延びる道。道の左右に数軒の家が建っていた。
写真上は花卉栽培のビニールハウス。正面奥に農協倉庫、その右に駅舎が見える。
JR深名線バス停は鷹泊には2カ所ある。リフレッシュプラザ鷹泊前にある鷹泊自然公園前バス停と鷹泊バス停である。そのうちの鷹泊バス停は、昔で言えば下鷹の中村さんと山下さんの中間付近にある。
写真上はJR深名線鷹泊バス停。後ろには花卉栽培のビニールハウスが見える。
その鷹泊バス停に立ち寄ってみたところ、バス停の中のトイレには「トイレ故障の為 使用できません 市役所企画課」との貼り紙があった。「市役所企画課」と書いてあったのが意外に思えた。バスの運行はJRが行っているが、バス停は深川市が管理しているということだろうか。JR北海道と深川市が共同で、地域住民の足を守るためのバス運行をしていることだと思う。
一つの疑問がわいてきた。鷹泊にはコンビニもなく、リフレッシュプラザ鷹泊も常にはオープンしておらず、他の公共施設のトイレもないようだ。バス停のトイレも故障となれば、トイレを使用したい時はどうすればいいのだろう。まあ何とかなるだろうということで深く考えないようにしよう。
写真上はトイレ故障を知らせるの注意書き