鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊に来ると、鷹泊駅跡ははずせないポイントである。

2020年08月31日 | Weblog

深名線が廃線になった平成7年から25年が経過。駅舎だった建物は、風雪に耐えてなんとか持ちこたえている。

まだ存在していた、というかまだまだ壊れそうではない雰囲気である。どなたかが管理していると思われる。長らく持ちこたえていた駅舎の隣にあった駅トイレがついに朽ち果ててしまったのを数年前に眼にしたので、そうならないことを願う。欲を言えば、看板は無理でも、鷹泊駅跡とか建物名を表記してほしいと思った。鷹泊出身者にはなくてもわかるが、納屋というか、物置のように見える。

ちょうど親子4人が乗った1台の車が駅舎を見にやってきたが数分で立ち去っていった。鷹泊出身者なのだろうか、それとも鉄道ファンなのだろうか。

写真は駅舎の正面(上)とホーム側(下)

比較のために昔の鷹泊駅(ふるさと鷹泊会記念誌から転載)

 

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鷹泊でのイチゴ狩りといえば旭団体。

2020年08月29日 | Weblog

昭和30年代の鷹泊の思い出の一つに、旭団体でのイチゴ狩りがある。旭団体では畑作が主業だったようだが、イチゴ栽培も行っていた。今は観光農園みたいな所は全道のあちこちにあって多くの人で賑わうが、当時の鷹泊でイチゴ狩りができるのは嬉しかった。旭団体へ行くには、前述の幌内旭日線ではなくて、鷹泊側からの、人だけが通れる山道を通ってであった。すなわち、南鷹にあった踏切を越え、田圃のあぜ道を通り、三号沢に渡した板の上を渡り、森の中の山道に突入。大きな石がころがっている山の中に無理矢理つけたような道だったが、子供達にとっては探検みたいで、今思い出すと楽しい体験だった。ヘンゼルとグレーテルが森の中に迷い込んだグリム童話の世界と同じような感動をもう一度味わいたい気分といったら言い過ぎか。

その森の中の道を進んで、ほどなく小高い頂上に着くと視界が開け、下方にはイチゴ畑を含めて畑作地がひろがっていた。感動の中でのイチゴ狩りであった。

今でもイチゴを食べる機会があると、この時のイチゴ狩りをよく思い出す。

山道の中程に大きなクルミの木があり、そこでクルミを採ったことも当時の思い出である。

しかし今は、山に樹木が生い茂り、当時通った山道が残っているとは思えなかった。

写真に示した矢印の経路で山道を(森の中の道を行く感じで)旭団体へ行った。

遊びに行った帰りに馬車に乗せて貰い、幌内旭日線を通ったことが1回だけある。

写真はGoogle Mapによる旭団体付近。黄色の大きな矢印のあたりに森の中の道があった。

写真は鷹泊駅跡から見た旭団体方向の山。

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鷹泊の入口部分で昔を思い起こして。

2020年08月27日 | Weblog

三号沢からの流れに架かる国道275号線鷹泊橋を渡る。ここは間違いなく鷹泊だ。三号沢からの流れは、鉄橋(今はないが)の下から、さらには道路の橋(鷹泊橋)の下をとおり、雨竜川にそそぐ。子供の時、魚釣りによくきた場所だ。鉄道の橋と道路の橋の間でウグイがよく釣れた。水深が深くて、流れが滞って釣れそうに思える雨竜川への合流部は釣れたという記憶がない。

写真は国道275号線に架かる鷹泊橋(鷹泊方向から撮影)。右端に雨竜川。

今、鷹泊市街方向を見渡すと、水田とソバ畑が広がっているが、昭和30年代のこのあたりの道沿い部分は、河○さんのトウキビ畑や大豆畑だった。

市街地に入らず、遠くから眺めると昔と変わっていないようにも見えるが、実際には市街地から人家がほとんど無くなっている。住んでいた家も既に無くなって25年もの年月が経っている。

写真は国道275号線から右手に見える水田とソバ畑

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旭団体は鷹泊ではなく、幌成だったのか?

2020年08月25日 | Weblog

いよいよ鷹泊へ到着

鷹泊の入口付近にある鷹泊岩にさしかかった。しかし、ここでゆっくり休息というわけにはいかない。2016年11月2日に、このあたりにヒグマが出た情報が頭にこびりついている。(参照)知っているだけによけいな不安がもたげてくる。茂みには近づかないようにしよう。

ヒグマが出たのは、鷹泊岩のちょうど対岸にあたる切替橋から北へ100メートルのところとされている。このあたりの国道から右手の山側に入った道が旭団体方面である。ちょうど入口付近に交通安全を呼びかける旗が立っていた。旭団体には今は誰も住んでないと思うが、道はきれいについている。奥の方にまで行けるようだが、道も狭いこともあり行くのは遠慮した。この道は深川市の市道網情報によると、幌内旭日線というようだ。幌内イコール幌成であるので、この道は幌成に属するということなのだろうか。

旭団体は幌成か鷹泊か。戦後のあの時代、旭(市道の名称からは旭日が正しいのか?)団体地区には4戸あった(子供時代の記憶では2戸だと思っていたが、ふるさと会での情報によると4戸だったよう)が、そこに住んでいた子は幌成ではなく鷹泊の学校に通っていたはずだ。まあ昔はそこのところはアバウトだったのかもしれない。

写真は鷹泊岩の対岸付近の国道から山側に入る幌内旭日線の入口部分。

地図は市道幌内旭日線を示している。

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幌成の学校跡

2020年08月23日 | Weblog

鷹泊への旅

多度志のことを長々と書きました。

さて、多度志を後にして宇摩を通過して、幌成までやってきた。ここまで来れば鷹泊はもうすぐだ。幌成といえば、小学校低学年だった時に、鷹泊から歩いて幌成小学校までやってきて、鷹泊小学校対幌成小学校との親善ドッジボール試合をした遙か昔のことを思い出す。鷹泊から幌成まで距離は 4km強である。学校の遠足で鷹泊ダムまで行くのとほぼ同じ距離の1里だと昔から覚え込んでいる。昭和34年のメートル法実施まではダムまで1里(3.75km)と覚えやすかった。1里の距離はこの程度であると体が覚えこんでいる。この程度の距離を歩くのはまったく苦にならなかった。今の時代だったら、歩かせずにバスを使えと親から苦情がくるのかもしれない。

幌成の国道275号線沿いにはほとんど家は見あたらない。学校跡の記念館(幌成郷土資料館)はきれいに保存されている。隣にあるコミュニティーセンター前には車が数台止まっていた。利用者がいるということはいいことだ。リフレッシュプラザ鷹泊を数回訪れたが、鷹泊の同様施設にはいつも利用者は見かけなかった。国道のすぐ脇にあるので入りやすいのかもしれない。

下幌成を通過。ここにはまだお寺(成福寺)が残っている。数年前に訪れたので今回は敢えて行かなかった。

写真は幌成郷土資料館とコミュニティーセンター

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多度志中学校の歴史から、母校の鷹泊小中学校を振り返る

2020年08月20日 | Weblog

多度志町は、昭和45年(1970年)4月に隣接する深川市に編入されたが、その時に多度志地区の中学校は1校にまとめることが求められた(多度志、幌成、鷹泊統合)とされている(参考ブログ)。多度志中学校との統合で、中学校が地元鷹泊からなくなり、中学生は多度志まで通学することになったことは驚きだったと推測するが、その後の生徒数の推移を見てみると、当時の判断は正しかったといえる。統合時の多度志中学校の生徒数238人が10年で約半分になり、次の10年で更にその半分以下という信じられない減り方である。誰も予想できなかたのではないだろうか。

多度志中学校生徒数の推移。(鷹泊からの生徒人数は、鷹泊小学校卒業人数からの推定。)

昭和47年(1972年)238人 統合、新校舎完成。このうち鷹泊からは45人?

昭和57年(1982年)128人 統合10周年。鷹泊からは19人?

平成  4年(1992年) 52人 統合20周年。鷹泊からは4人?

平成 14年(2002年) 38人 開校55周年・統合30周年

平成 26年(2014年)  ?人 多度志中学校が閉校。深川一已中学校と統合。

写真は平成16年、開校55周年、統合30周年の時の多度志中学校校舎(記念誌より)

 

鷹泊小中学校の歴史

昭和22年4月 多度志村立鷹泊小学校

昭和25年10月 鷹泊中学校併設

昭和26年9月 鷹泊小中学校

昭和45年4月 鷹泊小学校単独校(中学校は多度志中学校鷹泊教場となる)

昭和47年4月 中学校は多度志中学校と統合、校舎は新築の多度志中学校校舎使用。

平成9年3月 鷹泊小学校閉校、多度志小学校と統合。

 

私は昭和30年代、鷹泊小中学校に9年間通学した。この頃生徒数は安定していて統廃合など念頭になかった。その後、生徒数が減少に向かい、複式学級を経て、最初に中学校が統合になり、最終的に平成9年に小学校も多度志小学校に統合という形になって鷹泊から学校がなくなった。深名線が廃線になったのが平成7年9月だから、地域の核になっている学校も駅もなくなり、人口減に拍車がかかったと思われる。

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多度志中学校の石碑の銘文

2020年08月18日 | Weblog

写真は銘文が読みづらかった石碑

正面横に石碑が残っており、四字熟語らしき標語が刻まれていた。

一行目は達筆過ぎて漢字が読めないが、二行目には不撓不屈、三行目には深川市立多度志中学校と書いてある。

不撓不屈はよく知られている。困難に屈しないという意味で、貴乃花の横綱昇進時の口上文としても有名である。

しかし、一行目の文字が気になり、帰宅後候補文字をいろいろ考えたが、なかなか正解にたどり着かなかった。最初の文字が刷に見えるし、最後の文字は新だとは思うが折にも見える。四字熟語辞典で調べたが、解明できなかった。造語なのだろうか。ここでくじけずに多度志中学校記念誌を調べてみた。

記念誌の学校紹介のところに、『「々しく我らあり」「々にたに我らあり」と校歌にあるように、開拓魂を引き継ぐ力強い校風・・・』とあった。これだ!これに違いない!また教頭先生の言葉として「剛雄日新」「不撓不屈」の精神を、今後も守り続けたいとあったので、剛雄日新で間違いないだろう。

校歌からの引用ということであれば、多度志中学で学んだ人達にとっては、「剛雄日新」はあたりまえのように知っている言葉だと思うが、校歌を知らない者にはわからない銘文である。

私も不撓不屈の精神で、正解と思われる言葉にたどりつき、胸のつかえがとれた。

一方、別の施設に転用で、この石碑はどうなるのだろうという疑問も生じてきた。

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多度志中学校跡で感じたこと

2020年08月16日 | Weblog

2014年(平成26年)4月の廃校(深川一已中学校と統合)後6年が経過して、グラウンドも草ぼうぼう状態になっているのかと想像していたが、それほど草丈が伸びているわけだはなかった。

校舎入口の所に廃材の山とともに、柔道で使用していたと思われる畳が50枚くらい積み上げられていた。廃校跡の校門に咲くフランスギクと思われる白い花が、生徒たちのいない廃墟で咲いているということで余計に可憐さを感じさせていた。

畳を見ると昔の鷹泊中学校は柔道活動が活発だったことを思い出す。あの時代、鷹泊中学校での体育での柔道はなかったが、部活動として柔道部があった。細田先生など熱心な先生達の指導で、黒帯の生徒もいて強い柔道部だった。体育館に段位や級を表す名札が掛かっていた。

学校跡が活用されるのはいいことだが、校舎、体育館、グラウンドも工事が進めばこれが見納めかもしれないと寂しさを感じた。

計画では校舎部分で野菜栽培、体育館で水産物養殖、グラウンドで太陽光発電等の自家発電化が行われるとのことである。

写真は入口付近に咲く白い花

写真は廃材と畳

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多度志中学校跡地利用に動きがあったよう。

2020年08月14日 | Weblog

鷹泊への旅の途中

多度志中学校の廃校跡にも立ち寄った。平成26年(2014年)に廃校になった多度志中学校であるが、その校舎は何かに転用されるのだろうか、それとも取り壊しかと興味を持って見ていたが、校舎を活用しての私企業進出の情報があった(参考1)(参考2)ので、さてどうなったのかと中学校跡を見に行った。

情報では北海道パレットリサイクルシステム(HPRS、本社深川市)は、閉校した多度志中学校の校舎を利用して、太陽光や風力発電を自家消費することで既存電力網に頼らないオフグリッドの植物工場を設置する。2019年12月から校舎の改修工事を開始し、2020年7月ごろから農作物を栽培する予定で、計画では校舎部分で野菜栽培、体育館で水産物養殖、グラウンドで太陽光発電等の自家発電化とある。

勇んで立ち寄ったが、遠目で2年前と変わっていないように見えた。近くに行くと、正面に廃材が置いてあったので、少し変化があるようにも見受けられるが、大きな工事が始まったようにはとても思えなかった。もちろん人は誰もいない。これはまたどうしたことだ。旧校舎の内部に入り込んだわけではないが、今ここで何かが稼働しているようには見えなかった。

新型コロナの影響で、企業活動がストップしているのでないかと想像する。

 

写真は現在の旧多度志中学校校舎 遠くからと近くから。

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多度志駅跡で思うこと

2020年08月12日 | Weblog

鷹泊への旅

多度志駅があった付近にやってきた。あの時代、多度志駅を降りると左手のメイン通りと右手の通りがあった。通りは昔と変わりなく存在するが、なんといっても人家が激減している。

昭和30年代、鷹泊小中学校では深川や多度志から深名線通勤をしている先生が何人もいた。

小学校の担任だった竹○先生のご実家は左の通りの突きあたり付近だったし、また高○先生のご実家は右の通りの奥方向だった。冬休みにはクラスの仲間多数と遊びにお邪魔したことを思い出す。あの時代、鷹泊という閉鎖空間から出たことのない子供達にとって、多度志は、いろいろな店がある別世界のような街だと感じていた。

駅跡には建造物が何もなく樹木が茂って、線路があった位置すらわからない。昔の多度志駅を知らない人が訪れても駅跡を見つけることは困難である。駅跡付近に小規模の太陽光発電パネルらしきものがあった。

昭和30年代の記憶に残る多度志駅は、駅敷地に沢山の丸太が積まれていた。駅から見える丘の上に多度志中学校があった。

写真は多度志駅跡。左右方向に鉄道が走っていたが、その面影はない。

写真は多度志の元の駅前から見た通り。上の写真が左方向(JAが道の右にある) 、下の写真が右方向(突きあたりが国道275号線)。 

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