鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

なつかしの心のふるさと鷹泊

2008年04月09日 | Weblog
鷹泊を去るにあたって、通称イノシシ山をもう一度眺めた。
その昔の3月、氷の張った雨竜川を渡り、固雪を利用して早朝にイノシシ山へ出かけ、うさぎの罠を仕掛けたこともあった。一冬乾燥させてあったとうきびをエサとし、ウサギがかじると罠が絞まるしくみだった。幸か不幸か、ウサギを捕まえたことはなかった。前述のように沼や川ではフナ、ウグイ釣りを楽しんでいた。このように鷹泊は、豊富な自然の山川に恵まれ、まさに唱歌「ふるさと」の歌詞の世界そのものだった。
♪ うさぎおいしかの山 こぶなつりしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと♪
鷹泊は昔と変わらず、いい所だったことを再確認した。
鷹泊紀行はこれでひとまず終了します。ブログを見ていただいた方に感謝します。
 過去をより遠くまで振り返ることが出来れば、未来をより遠くまで見渡せるだろう
 ウィンストン・チャーチル ( 元英国首相) 
   写真は鷹泊イノシシ山の風景
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坊主山は神々しく遠くに見えた

2008年04月08日 | Weblog
堤防を歩きながら北西方向の遠くの山並みを見た。坊主山(776 m)が遠くに見えた。
晴れた冬の朝、カミソリのような稜線は、神々しさを感じた。遠いような、近いような山で周りの山とは一線を画しているように見える。
幌加内町と沼田町の境界にある山で、幌加内坊主山とも白鳥山ともいうようだ。鷹泊の山といえば浅羽山だが、坊主山も鷹泊人に昔も今も親近感を感じさせる山だ。  
写真は遠くに見える坊主山を堤防から
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昭和30年の大洪水とその後の堤防建設

2008年04月07日 | Weblog
電話がなく伝達手段がない時代ゆえ、 水がひいたあとも 分からず不安だった。
洪水対策として、すぐに堤防の建設となった。今なら重機を使って工事も容易だと思うが、馬を使った堤防構築事業だった。簡易線路を砂利や土を積んだトロッコを引いた農耕馬が行き交い、工事を進めていた。堤防が出来てからは、川の氾濫もなく安心して暮らせるようになった。
 写真は堤防からながめた風景(下鷹から北方向)
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堤防は鷹泊大洪水の後にできた

2008年04月04日 | Weblog
堤防を歩いてみた。鷹泊市街部の堤防は昭和30年代早期にできたものだ。28年に鷹泊ダムができたが、堤防はなかった。それまで雨竜川の氾濫による洪水はなかったようだが昭和30年7月、鷹泊市街部の床上浸水を伴う未曾有の大洪水が起きた。上流の幌加内地区の局地的豪雨を、出来て間もない鷹泊ダムが支えきれなかったことが原因だった。 国会でも取り上げられ、ダムは洪水調節 貯水機能よりも電源開発、発電目的であるとかの答弁がされていた。
あの時は雨竜川が氾濫して、濁流が水田を流れていた。 稲は収穫を前にして全滅した。床上浸水というのは悲惨だ。洪水が引いた後の伝染病予防の消毒液散布、各家の前ではぬれた家具、とりわけ畳干しの光景が焼き付いている。
写真は堤防からながめた風景(鷹泊橋から北方向)
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砂白金で名を馳せた鷹泊

2008年04月03日 | Weblog
 小さな「現場」が雨竜川沿いにいくつかあった。そこで泳いだり、フナ、ウグイを釣ったり、エビを採ったりと思いでは尽きない。 当時は何の疑問もなく「現場」と言っていたが、おそらく砂白金採掘の「現場」の跡なのだろう。鷹泊小学校校歌にも ♪白金の丘 さゆる星♪ とあるが、 鷹泊は昔、砂白金や砂金で有名だった。
砂金に関する記憶としては、昭和30年頃は雨竜川の流れがきつくない浅瀬で砂金採取の人を時折見かけた。川底の砂を篩を通し、比重差で金を残していくという手法だ。しかし、ほどなく見かけなくなった。だんだん採れなくなったのだろう。砂金で賑わったのは、明治から戦前までくらいだったようだ。◯◯店では、砂金をお金に交換する仕事も営んでいた。精密天秤で砂金を秤量していたが、ペットシュガーのようなわずかの量の砂金が何枚もの紙幣と交換されていくのをみて、目を見張った。 
 写真は増水した鷹泊橋下流の雨竜川
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魚釣りを楽しんだ沼は消滅して原野になっていた

2008年04月02日 | Weblog
プールがない時代であったが、川での泳ぎは危険であった。それゆえ子供達は沼でよく泳いだ。沼といっても、それは「ゲンバ」とその当時は称していた、ちょっとした水たまりのような場所である。現場と表記するのであろうが、雨竜川に沿って何個かの「ゲンバ」があった。そのうち橋の上流にある第二水泳場近くの「現場」でよく泳いだ。この写真の第三水泳場近くの「現場」は、昭和30年代でも周囲がゴミ捨て場になっていて泳ぐ場所ではなく、フナ、ウグイが住みついていたので、釣り堀のように魚釣りを楽しんでいた。ところが今は沼が消滅して、一面ススキにおおわれた原野と化していた。
写真はススキに覆われた「現場」跡
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大岩小岩の間で泳いだ第三水泳場 

2008年04月01日 | Weblog
半世紀前になるが、雨竜川で全校生対象の水泳授業があった。危険だから?そのうち、川での水泳授業はなくなった。
第三水泳場は、夏休みにはよく泳ぎに行った。向かいには金比羅神社がある場所だ。この日は見慣れない程に雨竜川の水かさが増していて、大岩小岩がやっと見える程度だったが、通常、大岩は甲羅干しに何人も上がっていられる大きな岩だ。大岩小岩の間を「ガニ泳ぎ」といって、手を川底につけてのカナヅチ泳ぎの子も多かったが、浅いところでしか出来ない泳ぎなので安全ではあった。今の子以上に自然児ではあったが、プールがないので泳ぎの面では上達しなかった。
写真は水量が増していて、やっと見える程になっていた大岩小岩
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