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「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

私にとって論文を書くということ

2015-03-01 01:01:19 | 最終講義
 2014年に生命科学の世界で論文捏造という不幸な事件が起きた。そのことを調べた調査委員会の委員長が同じことをしていたということで、生命科学の信頼を損なうことになった。こういう論文を書いても後で必ずわかる。論文があろうがなかろうが自然が変わるわけではない。
 私は論文を書くときに、たとえばシカについての論文であれば
 「おいシカ君、こういうことを書くが、いいかい?」
 と訊くような気持ちがある。自分ではそう考えたが、思い違いがあるかもしれないし、試料が少なくてたまたまそういう結果になったかもしれない。正しい像を描くために、できるだけ客観的に判断し、できるだけ多くのサンプルをとるようにしてきた。複雑な動物や植物のことを知るのは容易なことではない。まして森のことはさらに複雑であり、しかも動物そのものでも、植物そのものでもなく、それらのつながりの存在を示さなければならない。私には
 「森さん、こう考えたのですが、いいですか?」
 といわばお天道さんに訊くような気持ちがある。
 私は大論文を書くことはなかったが、160余編の論文はすべて事実に基づいている。そのことの清々しさは、あたかもモンゴルの青空のごときである。



天は穹廬(きゅうろ)に似て四野を籠蓋(ろうがい)す。天は蒼々たり、野は茫々たり。風の吹きて草を低(た)らしめ、牛羊の見ゆ
 これは好きな詩の一部だが、論文を書くことに対する私の気持ちを表すにふさわしいものがある。
天はまるでゲルのように西も東も、北も南も蓋をするように覆う。天は蒼い。限りなく蒼い。草原には草が見渡す限り広がっている。そこに風が吹くと、草がなびいて低くなり、その先に牛や羊の姿が見える。


モンゴル、ブルガン県の景色


つづく

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