慶喜

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参勤交代制度を見直した松平春嶽

2019年08月10日 | 歴史上の人物
松平 春嶽(しゅんがく)

 ☆幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家 
 ☆第16代越前福井藩主
 ☆田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男
 ☆松平斉善の養子で、将軍・徳川家慶の従弟
 ☆英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われいた

松平 春嶽藩主就任から結婚まで
 ☆江戸城内の田安屋敷に生まれ、伊予松山藩主・松平勝善の養子となる
 ☆越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去
 *跡継ぎがいないので、春嶽が養子とされた
 ☆越前松平家の家督を継承し、11歳で福井藩主となる
 ☆肥後熊本藩主・細川斉護の娘・勇姫と結婚
松平 春嶽藩主としての活躍
 ☆藩の財政基盤を盤石改革
 *全藩士の俸禄3年間半減
 *藩主自身の出費5年削減を打ち出した
 ☆ペリー率いる艦隊が来航
 *海防強化や攘夷を主張する
 *その後、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる
将軍継嗣問題
 ☆堀田正睦を中心に、慶喜を将軍に、春嶽を大老とする運動が行われた
 ☆春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押しした
 ☆南紀派は、(紀州徳川家の徳川家茂を推す
 ☆大老井伊直弼は、将軍世子は家茂に決定する
 ☆南紀派は一橋派(慶喜派)を弾圧した
 ☆松平春嶽は、隠居させられ、謹慎の処罰を受けた
松平春嶽の明治維新まで
 ☆井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される
 ☆幕府の政策方針も転換し、春嶽は幕政への参加を許される
 ☆春嶽は新設の政事総裁職に就任
 ☆会津藩主・松平容保の守護職就任
 *将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する
 ☆会津藩と薩摩藩が協力した政変
 *長州藩が追放され、禁門の変で長州藩が朝敵となる
 ☆春嶽は、参預に任命される
 *参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致から上手く機能しなかった
 ☆西郷隆盛に促され、四侯会議が開かれた(春嶽も出席)
 *合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷・雄藩連合による合議を画策した
 ☆慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している
 ☆春嶽、王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される
松平春嶽の維新後
 ☆王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった
 ☆維新後の新政府では、内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任
 ☆明治3年に政務を退く
 ☆明治23年に肺水腫のため小石川の自邸で死去、享年63
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHK『英雄たちの選択』、WIKIPEDIA














参勤交代制度を見直した松平春嶽
(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)





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