慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

源平の争い3(奥州攻め・承久の変)

2022年06月03日 | 歴史
🌸奥州攻め

 ☆100年の栄華を誇った奥州藤原氏の最後


平安時代の奥州攻め
 ☆無断任官を受けた義経を危険視した頼朝は、義経追討令を出す
 ☆頼朝は、義経追捕を口実に、守護・地頭を全国に設置した
 ☆追い詰められた義経
 *奥州藤原氏が支配する平泉に身を寄せ、当主の秀衡の庇護を受ける
 *秀衡は病死後、秀衡の後継者の泰衡は頼朝を恐れた
 *父の遺言を無視して義経の居館を襲撃し、義経は自害して呆てた
 *泰衡は義経の首を鎌倉に送り恭順の意を示す
 ☆頼朝は義経を秘匿したことを理由に奥州を攻撃
 *泰衡は逃亡の末に家臣に討たれた
 *北方の覇者・奥州藤原氏は滅びた

頼朝の奥州攻め
 ☆頼朝、三方向から奥州を攻める
 *東海道を千葉常胤・八田知家
 *北陸道を比企能員・宇佐美実政
 *中道を頼朝と軍を分け進軍する
 ☆藤原氏頼朝軍を迎え撃つ
 *強力な防衛陣地を築いた阿津賀志山で
 *激戦ののち、頼朝軍が勝利する
 *その後、追激戦となり頼朝のもとに泰衡の首が届いた

藤原泰衡、衣川で源義経を討つ
 ☆頼朝からの義経引き渡しを拒んでぃた藤原泰衡
 *朝廷から義経追討の命令が下ると
 *義経を討つか頼朝と対決するかの選択に迫られた
 ☆義経を討つことを決意した泰衡
 *衣川館にいた義経を襲撃し、義経は妻子とともに自害する
 ☆頼朝はそれにもかかわらず
 *奥州藤原氏を減ぼすために兵を挙げる

敗軍の将、藤原泰衡
 ☆100年続いた奥州藤原氏最後の当主
 *藤原清衡に始まる奥州藤原氏の4代目
 *亡き父の意向に従い義経を守っていた
 ☆頼朝の脅しに屈して義経を攻撃した
 *義経側の弟の忠衡も殺害している
 ☆奥州征伐を望む頼朝の大軍に攻められると
 *平泉に火を放ち逃亡
 *罪の減免を願った書状を送るも、黙殺された

🌸承久の変

 ☆鎌倉幕府と朝廷の関係を逆転させた一戦

平安時代の承久の変
 ☆武家政権を樹立した源頼朝が死去
 *嫡男の頼家が2代将年に就任した
 *北条時政ら13人の宿老が、合議制を敷いて補佐した
 ☆北条時政は対抗勢力を次々と粛清し、頼家も葬り去る
 *頼家の弟、実朝を将軍に据える
 *実朝は後鳥羽上皇の覚えめでたかった
 ☆実朝は、2代執権・北条義時の時代に暗殺される
 ☆北条義時を疎む上皇は、義時追討の院宣を発する
 ☆上皇の挙兵に動揺する御家人たち
 *北条政子の叱咤により奮起した
 *上皇軍を撃破し、乱は幕府軍の圧勝で終わる

幕府は守る事よりも攻める事を選択
 ☆後鳥羽上皇の挙兵に対し
 *京へ攻め上がることを決定した鎌倉幕府
 ☆19万騎の軍勢、東海・東山・北陸の三道に分かれ京都へ進軍した
 ☆木曽川に達した、東海・東山道軍上皇方を破りさらに進軍した
 ☆北陸道軍も砺波山での激戦を制して京を目指した
 ☆上皇軍は、軍を再編し瀬田と宇治に兵を集めて防衛線を引いた

最大の激戦となった宇治川の戦い
 ☆宇治橋を挟んでの戦いが始まった
 *橋桁は上皇軍に外されていた
 *増水で幕府軍は宇治川を渡れずにいた
 ☆北条泰時の命令を受けた幕府軍渡河を強行
 *多くの死者を出しながら
 *宇治を突破し京を占領した

勝軍の将、北条義時
 ☆北条氏の権力を確立させた男
 *北条時政の次男、政子の弟で「宿老13人」の一人
 ☆横暴を極めていた父の時政を追放して幕府の実権を握る
 ☆承久の乱後は、朝廷を監視する六波羅探題を設置する
 ☆合戦により朝廷の権力が低下し、幕府の力が増大する
                          (敬称略)                                     
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本の合戦』






源平の争い3(奥州攻め・承久の変)
『日本の合戦』日本の合戦記事より画像引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本人、なぜ原爆を落とした... | トップ | 「SDGs」は日本を滅ぼす罠 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事