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毛利輝元(おぼっちゃま武将)

2022年03月27日 | 歴史
🌸毛利輝元(おぼっちゃま武将)

 ☆徳川の世が終わると考えていた武将
 ☆元就の器量を受け継がず「練れてない」お坊ちゃま
 ☆豊臣秀頼の勝利を睨んで佐野道可事件を起こした

輝元「毛利領は安泰」と読み違えて
 ☆美濃国・関ヶ原での戦いが終わった後も
 ☆徳川家康は大坂城の毛利輝元の動向に頭を悩ませていた
 *輝元が西軍の残存部隊を城内に迎え
 *豊臣秀頼を擁して籠城戦を展開したら面倒である
 *福島正則ら豊臣恩顧の大名は、秀頼と正面切っては戦えまい
 *その場合、東軍の勝利に不安が生じる
 ☆家康は、黒田長政と福島正則に、輝元へ書状を届けさせた
 *書状より、輝元は「毛利家の領土は安堵された」と読み城を出た
 *家康は直ちに大坂城に入って勝利を確定させた
 *家康は、論功行賞に取りかかり、毛利家の領地没収を示唆された
 *吉川広家らの必死の嘆願があって、防長2ケ国の大名として生き残る
 *文意を勝手に読み替えたのは、輝元なのだ
 ☆輝元は「練れてない人」だからこそ、書状の真意を測れなかった
 ☆毛利輝元は毛利隆元の嫡男
 *父が亡くなると、祖父の元就の補佐を受け、11歳で毛利家の当主となる

輝元は、2人の叔父に懸命に支えられていた
 ☆優秀な2人の叔父が懸命に、「練れてない」お坊ちゃまを補佐した
 ☆豊臣政権下毛利家は120万石に及ぶ大きな領地
 *石見銀山の経済力、豊臣五大老に2人(輝元と隆景)を送り込む
 ☆関ヶ原の戦いにおいて輝元は西側の総大将につく愚挙を犯した
 *海千山千の家康と、お坊ちゃま自身の力量の差が認識できず
 ☆領地は大きく削られてしまった
 ☆輝元はこれを屈辱のシンボルと見なしていなかった
 *領地を削られても大名として生き残れたこと
 *切腹を命じられなかったことを、輝元は心から喜んでいる

豊臣方に軍資金と兵糧を送る
 ☆輝元は、腹が据わらずに、佐野道可事件を引き起こす
 ☆豊臣が滅びた大坂の陣
 *戦う前から勝敗は決まっていた
 *残存した豊臣恩顧の大名の中で、大坂方に参じた者は誰一人いない
 *あの福島正則ですら動けず、豊臣秀頼の勝利などあり得なかった
 ☆輝元はそう考えなかった
 *徳川の世が終わるかもと、都合の良い夢を見た
 ☆毛利家の一族の内藤元盛に佐野道可という別名を名乗らせ
 *軍資金と兵糧をもたせて大坂城に入らせた
 *豊臣が勝ったときに備えたのである
 *輝元は徳川滅亡にに賭けたが賭けに敗れた
 ☆大坂の落城後、道可の身柄を押さえ、彼は自害した
 *輝元は、事情を知らないとした道可の2人の男子にも自害を強いた
 *毛利の謀反を詮索されぬための措置である
 ☆吉川広家は、この事件を知って激怒し、愛想が尽きたのだろう
                     (敬称略)                                     
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⛳出典、『THEMIS3月号』






毛利輝元(おぼっちゃま武将)
(ネットより画像引用)

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