応仁の乱の跡地を歩く
☆戦国時代の幕開けとなったエポックメイキング
☆京都人の心に深く刻まれる応仁の乱
☆洛中が火事以外で灰儘に帰したのは、後にも先にもこの戦いだけ
☆応仁の乱は、室町幕府の将軍家と管領家の後継者争いといわれる
*嫡子ができなかった八代将軍・足利義政
*弟の義視を還俗させて後継者にしようとした
*そのタイミングで妻・日野富子が義尚を出産
*我が子を将軍に据えたい富子は後ろ盾を山名宗全に依頼
*義視は山名家の対抗勢力である細川勝元に助力を求めた
☆時を同じくして、将軍を補佐する三管領の家柄畠山家・斯波家
*後継者争いが勃発
☆これらの対立は、細川方の東軍と山名方の西軍による内乱に発展
☆戦局はやがて全国に波及した
☆焼け尽くされた京の都に上った煙
*戦国時代の始まりを告げる狼煙でもあったのだ
上御霊神社
☆11年に及ぶ戦いの発端となった地
☆平安遷都に際し、非業の死を遂げた早良親王ら8柱の御霊を鎮めるために創建された
☆境内の「御霊の社」に布陣した東軍の畠山政長を西軍の畠山義就が襲撃し応仁の乱勃発
☆鳥居前と境内にはそれを示す石碑が立てられている
☆戦いは丸一日続き、結果は西軍方の義就の圧勝
☆政長は拝殿に火を放って敗走し、細川勝元邸に逃げ込んだという
相国寺
☆ターニングポイントとなった激戦地
☆応仁元年、同寺を拠点としていた東軍に攻め入り西軍が占拠
☆再度の激戦の末、東軍に奪還され、両軍に多大な痛手を残した
☆以後、京都市内での戦いは下火となり、戦局は地方に移つていった
東軍跡・細川勝元邸跡(小川児童公園)
☆名はなくとも語り継がれる「東陣」
*西軍の陣が敷かれたことによる地名「西陣」は知られる
*「東陣」の名は現在に残されていない
☆東軍の総大将・細川勝元邸は、小川児童公園の北側―帯にあったといわれる
百々橋の礎石
☆東軍と西軍が度々対峙した主戦場
☆かつて南北に流れていた川に架かつていた長さ約7.4Mの橋
☆応仁の乱ではこの小橋付近が主戦場となる
☆現在、川は埋め立てられ橋も解体された
山名宗全邸宅址
☆町名の由来となった西軍の中核
☆但馬はじめ数力国を治める権勢者
☆西軍の総大将を務めた山名宗全
☆邸宅は焼失したが、「山名町」の名と石碑がその面影を伝える
大報恩寺(千本釈迦堂)
☆戦火を免れた奇跡の本堂が残る
☆良妻「おかめ」の物語が伝わる、鎌倉初期に開創された古刹
☆本堂は、応仁の乱でも奇跡的に戦大を免れた洛中最古の本造建築物
☆堂内の柱には、応仁の乱の際についたとされる刀傷が残る
☆不動明王堂の不動明王像は宗全の念持仏だつたと伝わる
立ち寄りスポット
☆老舗京菓子店俵屋吉富
*代表銘菓は「雲龍」
*百々橋跡の向かいにある、隠れ家的茶房
☆五百年以上も受け継がれる「唐板」
*上御霊神社前の老舗が作りる厄除け煎餅と親しまれる「唐板」
*サックとした食感とほのかな甘みが楽しめる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『京都歴史さんぽ』
応仁の乱の跡地を歩く(『京都歴史さんぽ』記事より画像引用)
☆戦国時代の幕開けとなったエポックメイキング
☆京都人の心に深く刻まれる応仁の乱
☆洛中が火事以外で灰儘に帰したのは、後にも先にもこの戦いだけ
☆応仁の乱は、室町幕府の将軍家と管領家の後継者争いといわれる
*嫡子ができなかった八代将軍・足利義政
*弟の義視を還俗させて後継者にしようとした
*そのタイミングで妻・日野富子が義尚を出産
*我が子を将軍に据えたい富子は後ろ盾を山名宗全に依頼
*義視は山名家の対抗勢力である細川勝元に助力を求めた
☆時を同じくして、将軍を補佐する三管領の家柄畠山家・斯波家
*後継者争いが勃発
☆これらの対立は、細川方の東軍と山名方の西軍による内乱に発展
☆戦局はやがて全国に波及した
☆焼け尽くされた京の都に上った煙
*戦国時代の始まりを告げる狼煙でもあったのだ
上御霊神社
☆11年に及ぶ戦いの発端となった地
☆平安遷都に際し、非業の死を遂げた早良親王ら8柱の御霊を鎮めるために創建された
☆境内の「御霊の社」に布陣した東軍の畠山政長を西軍の畠山義就が襲撃し応仁の乱勃発
☆鳥居前と境内にはそれを示す石碑が立てられている
☆戦いは丸一日続き、結果は西軍方の義就の圧勝
☆政長は拝殿に火を放って敗走し、細川勝元邸に逃げ込んだという
相国寺
☆ターニングポイントとなった激戦地
☆応仁元年、同寺を拠点としていた東軍に攻め入り西軍が占拠
☆再度の激戦の末、東軍に奪還され、両軍に多大な痛手を残した
☆以後、京都市内での戦いは下火となり、戦局は地方に移つていった
東軍跡・細川勝元邸跡(小川児童公園)
☆名はなくとも語り継がれる「東陣」
*西軍の陣が敷かれたことによる地名「西陣」は知られる
*「東陣」の名は現在に残されていない
☆東軍の総大将・細川勝元邸は、小川児童公園の北側―帯にあったといわれる
百々橋の礎石
☆東軍と西軍が度々対峙した主戦場
☆かつて南北に流れていた川に架かつていた長さ約7.4Mの橋
☆応仁の乱ではこの小橋付近が主戦場となる
☆現在、川は埋め立てられ橋も解体された
山名宗全邸宅址
☆町名の由来となった西軍の中核
☆但馬はじめ数力国を治める権勢者
☆西軍の総大将を務めた山名宗全
☆邸宅は焼失したが、「山名町」の名と石碑がその面影を伝える
大報恩寺(千本釈迦堂)
☆戦火を免れた奇跡の本堂が残る
☆良妻「おかめ」の物語が伝わる、鎌倉初期に開創された古刹
☆本堂は、応仁の乱でも奇跡的に戦大を免れた洛中最古の本造建築物
☆堂内の柱には、応仁の乱の際についたとされる刀傷が残る
☆不動明王堂の不動明王像は宗全の念持仏だつたと伝わる
立ち寄りスポット
☆老舗京菓子店俵屋吉富
*代表銘菓は「雲龍」
*百々橋跡の向かいにある、隠れ家的茶房
☆五百年以上も受け継がれる「唐板」
*上御霊神社前の老舗が作りる厄除け煎餅と親しまれる「唐板」
*サックとした食感とほのかな甘みが楽しめる
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出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『京都歴史さんぽ』
応仁の乱の跡地を歩く(『京都歴史さんぽ』記事より画像引用)
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