慶喜

心意気
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毀誉褒貶の足利義教

2018年12月26日 | 歴史
鎌倉幕府~応仁の乱5

 ☆毀誉褒貶(きよほうへん)
 *「毀・貶」はそしる、「誉・褒」はほめる意味
 *悪口をいうこととほめること
 *世間の評判( 相半ばする、定まらず)

毀誉褒貶の足利義教
 ☆4代将軍の義持(義満の長男)の頃までは、幕府も安定した政権運営をしていた
 ☆義持は政治の実権を握ったまま、息子の義量に将軍職を譲る
 *義量は17歳で急逝し、義持は後継者を決めないまま亡くなる
 ☆後継者を指名しない状況に、困った群臣
 *クジ引ききをして次の将軍を決め、次の将軍に、義持の5男義教が決まった
 ☆義持が後継者を決めなかった要因
 *義持は、有力な守護大名の許可を得なければ認められない状況があった
 *義持の将軍の力は、それだけ弱かった
 ☆義教は、義満時代のような将軍家の復興を目指した
 *義教の強引な手法は多くの敵を作り、部下の守護大名に謀殺されてしまう
 ☆義教の死で、室町幕府は急速に弱体化していく
 ☆足利義教の後世の評価
 *織田信長を先取りしたような先進性を持った人物
 *すべてを性急に進めすぎた一面がある
 *配下の者に討たれるという最期も似ている
守護大名の台頭から応仁の乱へ
 ☆義教の死後、息子の義勝が8歳で7代将軍となったが、義勝はその翌年亡くなる
 *義勝の弟の義政が8歳で8代将軍に選ばれた
 ☆将軍の座に就いた義政は政治を疎むようになった
 *義政は妻の日野富子や有力守護大名の細川勝元、山名宗全らに政治を任せる
 ☆8代将軍義政は、東山殿(銀閣寺)に住み、趣味の世界に生きる
 ☆「将軍不在」の間に政治は大きく乱れる
 *後の応仁の乱を引き起こす原因となる
 ☆8代将軍義政の文化面での功績は大きい
室町の文化
 ☆室町文化の特色としてまず挙げられるのは、「わび、さび」
 ☆「わび」は、「心細く思う」「落ちぶれた生活を送る」「困って嘆願する」などの意味を持つ
 *良くない意味を持つこの言葉が、室町時代の茶の文化などと結びついて、独特の美意識が形成された
 ☆「さび」「さびれる」を意味する
 *「時間の経過とともにものが劣化する」という意味の言葉
 *「閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものが感じられる美しさ」という意味を持つようになった
 ☆「わび、さび」を象徴する存在が、足利義政が建立した銀閣
 ☆「わび、さび」という美意識から生まれた様々な文化や考え方
 *その後の日本人の生活や文化に根強く生きている
応仁の乱
 ☆義政の妻、日野富子は自分が産んだ子(義尚)を将軍にしようと考える
 *有力守護大名の山名宗全に義尚の後ろ盾になってもらうよう依頼する
 ☆将軍を約束された、義視は管領だった細川勝元を頼る
 ☆山名宗全と細川勝元の間にはそれ以前から権力をめぐっての確執があった
 ☆山名宗全と細川勝元が覇権をめぐって京都を戦場にして戦う「応仁の乱」が始まる
 *両者の戦いは、他の有力守護大名たちを巻き込む
 *山名側(西軍)と細川側(東軍)に分かれて、全国的な争いへと発展する
 *戦い7年目総大将であった山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなった
 *乱は終わらず、何のために戦っているのかわからない状態だった
 *乱は11年間続いた後、急速に収束、何も決着がつかず、勝者も敗者もない争い
 ☆応仁の乱は、主だった将が戦死することもなく、戦後に罪に問われた守護大名もいなかった
 ☆日本史上、これほど無意味な戦いは例がない
応仁の乱の影響
 ☆応仁の乱は、社会や制度を大きく変え、従来の身分制度が崩れた
 ☆家格に関係なく、実力ある領主が各地に誕生し、後に戦国大名へと成長していく 
 ☆それまで有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む者
 *天皇の血統に連なる者が尊ばれた
 ☆応仁の乱以降は、血統とは無縁の実力者が現れるようになった
 ☆戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に生まれた
沖縄諸島に琉球国が誕生
 ☆琉球国は、室町幕府からも明からも独立した王国と見倣されていた
 ☆現在の沖縄の人々の主な祖先は、10世紀前後に九州の南部から移住してきた人たち
 *沖縄県民の遺伝子は、中国人や台湾人でなく、九州以北の本土住民に近い
 *琉球の古語や方言にも、中国文化の影響は見られず、7世紀以前の日本語の面影が残っている
 ☆沖縄県は、民族的にも言語的にも日本であるといえる
 ☆中国に対して朝貢外交をしていた歴史はあるが、中国の領土であった時代は一度もない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』








毀誉褒貶の足利義教(ネットより画像引用)



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仁徳天皇陵発掘の成果?

2018年12月26日 | 皇室
宮内庁が困惑する新事実が明らかになるかも

 ☆今回、宮内庁が陵墓の調査を外部機関と共同で実施したことの意義は大きい
 ☆陵墓の調査がほとんどなされず、閉ざされたままでは、何も知ることができない
 ☆世界文化遺産は、真実性も重視されている
 ☆調査の積み重ねが、倭の五王の時代に新たな光をあてる
 ☆陵墓にまつわる謎を解き、真実に近づいていくことになるだろう

『記紀』は大山古墳を仁徳陵としている
 ☆大阪府堺市の大山古墳、全長525m日本最大の古墳(前方後円墳)
 ☆エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び、世界3大墳墓の一つとされる
 ☆「仁徳天皇」という名前は奈良時代に付けられた漢風諡号
 *仁徳天皇が実在したかどうかさえ疑問
 ☆被葬者は5世紀、中国・南朝に通交した「倭の五王」の一人である
 *「仁徳天皇」と同一人物なのかの確証はない
 ☆第16代仁徳天皇を、古事記では名を「オオサザキ」と称している
 ☆「仁徳」の名前の由来
 *天皇は、高殿に上って炊事の煙が立っていないのを見る
 *民の窮乏を知り、3年の間、税や労役を免じ、自ら倹約した
 *「仁徳」の名の通り、理想の聖帝として描かれている
 ☆8~9世紀の律令国家が、大山古墳を仁徳天皇陵と見なしてた
 ☆中国の歴史書より、5世紀日本では、5王が活躍していたのは事実である
 *5王(讃・珍・済・興・武)で、仁徳天皇を讃にあてる見方が有力
世界文化遺産登録が期待され
 ☆陵墓で、外部機関を交えて発掘調査が行われるのは初めて
 ☆「閉鎖的」とされてきた宮内庁にしては、画期的な出来事
 ☆被葬者解明につながる調査成果が得られることは期待できない
 ☆固有名詞の特定につながる文字資料が見つかる可能性はゼロに近い
 *日本の古墳で、墓誌などの文字資料が見つかった例は、これまで一つもない
 ☆大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群
 *19年にも世界文化遺産への登録が期待されている
「倭の五王」解明も待たれるが
 ☆仁徳天皇陵古墳が、履中天皇陵というような調査・研究結果が出ればどうなる
 ☆宮内庁は陵墓について、皇室祭祀の対象としている
 ☆違う祖先の墓をお祀りさせられてきた皇族らに、宮内庁はどんな説明をする?
 ☆面倒事に巻き込まれるのを避けるため、宮内庁は陵墓の立ち入りすら規制してきた
 *問題を先送りしてきたのではないかと勘ぐりたくもなる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS12月号』


宮内庁が困惑する新事実が明らかになるかも
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)
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