鎌倉幕府~応仁の乱4
観応の擾乱
☆足利政権は誕生した時から盤石な体制ではなかった
☆足利尊氏を軍事面で補佐する高師直と行政面で補佐する足利直義(尊氏の弟)が権力争い
*権力争いに敗れた直義は南朝と手を結ぶ(その後、直義は師直を殺す)
☆尊氏は朝廷を南朝た和議を結び、北朝の天皇を廃す
*直義と南朝の間を裂き、南朝に直義追討の綸旨を出してもらうための策略
☆南朝勢力は京都に侵攻して、義詮(尊氏の嫡男)を追い払い都を占拠する
☆義詮は反撃に転じて南朝を再び京都から追放する
*義詮は北朝の天皇を三種の神器なしに即位させる
*尊氏も征夷大将軍に復帰
☆幕府の権力争いはその後も続く
*直義も、尊氏との戦いに敗れ殺される
☆直義の残党はその後も南朝を支持し、幕府と対立し続けた
☆一連の争いは「観応の優乱」と呼ばれてる
☆室町幕府の権力基盤は脆弱で、政敵を倒すためには天皇の後ろ盾が必要だった
南北朝の統一
☆南北朝時代に終止符を打ったのは、足利三代将軍の義満(尊氏の孫)
☆義満は自分の側近を全国の守護職に就け、南朝を支持する守護大名の力を削いでいく
☆南朝側は、精神的支柱人物、武将が亡くなり、急速に勢力が衰える
☆義満の仲介で、南朝は北朝との和議を受け入れる
*南朝の第99代天皇が退位し、北朝の後小松天皇が第100代天皇となる
*56年続いた南北朝時代は幕を開じた
☆尊氏が政権を取って約60年後、室町幕府は全国を制覇した
足利義満の野望と死
☆足利義満は武家の最高権力「征夷大将軍」と、公家の最高職である「左大臣」になる
☆義満は、征夷大将軍を息子の義持に譲り、太政大臣となる
☆義満は自分の妻を天皇の准母(天皇の母親格)にする
*自らは太上天皇(上皇)となることを望む
☆義満の最終的な目標は次男の義嗣を天皇にすることだった
*義嗣を皇太子にし、天皇が亡くなれば、義嗣が自動的に天皇となるようにした
*義満が後小松天皇に退位を迫って譲位させることも可能だった
☆義満の計画は皇位寡奪であり、皇統を破壊する企みであった
☆義満は、義嗣の立太子式の6日後、発病し5日後に急死した
*義満の死亡の原因は、毒殺されたとの見方が強い
☆義満には死後に太上法皇の尊号宣下がある、子の義持はそれを辞退する
倭寇と勘合貿易
☆中国では漢民族の王朝、明が勢力を伸ばしていた
☆義満は、明と貿易(日明貿易)を行ない、巨万の富を得た
*公私の船を区別するために勘合を使い「勘合貿易」が行われた
☆勘合が使われた背景には「倭寇」の存在があった
☆倭寇は、中国や朝鮮の沿岸で略奪行為を働いた海賊
*倭寇の意味は「日本人による侵略」です
*対馬や壱岐等の漁民たちが、元と高麗に対する復讐のため始めたものだった
*倭寇は、海賊行為だけでなく私貿易や密貿易を営み、一部に高麗人も交じっていた
☆今日の日本の歴史教科書では、中国に配慮し「元寇」という言葉を使用しない傾向にある
*それならば、倭寇の言葉も日本の歴史教科書から削除すべきである
☆逆に、歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にするのは間違いだ
明との貿易
☆明との貿易では、「君臣」関係を結び朝貢をして「冊封」を受けるのが必要でした
*冊封は属国であることを意味するものではない
*明は民間貿易を許さなかった
☆足利義満は明皇帝から「日本国王」として冊封を受けた
☆日本が中華王朝の冊封を受けたのは、古代を除いて初めてのこと
☆日明貿易は、朝貢貿易で、わずかな品物を明帝国に棒げる
*それ以上の価値のものを受け取ることができた
*足利幕府は巨額の利益を得た
☆明の冊封を受けていることは国内でも大いに問題とされた
☆義満の死後、跡を継いだ4代将軍・義持は貿易を中止した
冊封は属国であることを意味するものではない
☆中国皇帝のメンツを重んじた儀礼で、実効支配や統治とは異なる
☆中国共産党政府が、最近主張していること
*古くから中国王朝に朝貢をしていたチベットなどは、「古代から一貫して中国の一部だった」
☆この論でいけば室町幕府も琉球も「明の一部だった」ことにされてしまう
☆私たちの先人が、冊封すら嫌ったということをしっかりと覚えておきたい
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
中国の冊封は属国を意味するものではない
観応の擾乱
☆足利政権は誕生した時から盤石な体制ではなかった
☆足利尊氏を軍事面で補佐する高師直と行政面で補佐する足利直義(尊氏の弟)が権力争い
*権力争いに敗れた直義は南朝と手を結ぶ(その後、直義は師直を殺す)
☆尊氏は朝廷を南朝た和議を結び、北朝の天皇を廃す
*直義と南朝の間を裂き、南朝に直義追討の綸旨を出してもらうための策略
☆南朝勢力は京都に侵攻して、義詮(尊氏の嫡男)を追い払い都を占拠する
☆義詮は反撃に転じて南朝を再び京都から追放する
*義詮は北朝の天皇を三種の神器なしに即位させる
*尊氏も征夷大将軍に復帰
☆幕府の権力争いはその後も続く
*直義も、尊氏との戦いに敗れ殺される
☆直義の残党はその後も南朝を支持し、幕府と対立し続けた
☆一連の争いは「観応の優乱」と呼ばれてる
☆室町幕府の権力基盤は脆弱で、政敵を倒すためには天皇の後ろ盾が必要だった
南北朝の統一
☆南北朝時代に終止符を打ったのは、足利三代将軍の義満(尊氏の孫)
☆義満は自分の側近を全国の守護職に就け、南朝を支持する守護大名の力を削いでいく
☆南朝側は、精神的支柱人物、武将が亡くなり、急速に勢力が衰える
☆義満の仲介で、南朝は北朝との和議を受け入れる
*南朝の第99代天皇が退位し、北朝の後小松天皇が第100代天皇となる
*56年続いた南北朝時代は幕を開じた
☆尊氏が政権を取って約60年後、室町幕府は全国を制覇した
足利義満の野望と死
☆足利義満は武家の最高権力「征夷大将軍」と、公家の最高職である「左大臣」になる
☆義満は、征夷大将軍を息子の義持に譲り、太政大臣となる
☆義満は自分の妻を天皇の准母(天皇の母親格)にする
*自らは太上天皇(上皇)となることを望む
☆義満の最終的な目標は次男の義嗣を天皇にすることだった
*義嗣を皇太子にし、天皇が亡くなれば、義嗣が自動的に天皇となるようにした
*義満が後小松天皇に退位を迫って譲位させることも可能だった
☆義満の計画は皇位寡奪であり、皇統を破壊する企みであった
☆義満は、義嗣の立太子式の6日後、発病し5日後に急死した
*義満の死亡の原因は、毒殺されたとの見方が強い
☆義満には死後に太上法皇の尊号宣下がある、子の義持はそれを辞退する
倭寇と勘合貿易
☆中国では漢民族の王朝、明が勢力を伸ばしていた
☆義満は、明と貿易(日明貿易)を行ない、巨万の富を得た
*公私の船を区別するために勘合を使い「勘合貿易」が行われた
☆勘合が使われた背景には「倭寇」の存在があった
☆倭寇は、中国や朝鮮の沿岸で略奪行為を働いた海賊
*倭寇の意味は「日本人による侵略」です
*対馬や壱岐等の漁民たちが、元と高麗に対する復讐のため始めたものだった
*倭寇は、海賊行為だけでなく私貿易や密貿易を営み、一部に高麗人も交じっていた
☆今日の日本の歴史教科書では、中国に配慮し「元寇」という言葉を使用しない傾向にある
*それならば、倭寇の言葉も日本の歴史教科書から削除すべきである
☆逆に、歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にするのは間違いだ
明との貿易
☆明との貿易では、「君臣」関係を結び朝貢をして「冊封」を受けるのが必要でした
*冊封は属国であることを意味するものではない
*明は民間貿易を許さなかった
☆足利義満は明皇帝から「日本国王」として冊封を受けた
☆日本が中華王朝の冊封を受けたのは、古代を除いて初めてのこと
☆日明貿易は、朝貢貿易で、わずかな品物を明帝国に棒げる
*それ以上の価値のものを受け取ることができた
*足利幕府は巨額の利益を得た
☆明の冊封を受けていることは国内でも大いに問題とされた
☆義満の死後、跡を継いだ4代将軍・義持は貿易を中止した
冊封は属国であることを意味するものではない
☆中国皇帝のメンツを重んじた儀礼で、実効支配や統治とは異なる
☆中国共産党政府が、最近主張していること
*古くから中国王朝に朝貢をしていたチベットなどは、「古代から一貫して中国の一部だった」
☆この論でいけば室町幕府も琉球も「明の一部だった」ことにされてしまう
☆私たちの先人が、冊封すら嫌ったということをしっかりと覚えておきたい
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
中国の冊封は属国を意味するものではない