鎌倉幕府~応仁の乱2
文永の役
☆中国大陸で、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル民族が、近隣の諸民族を吸収していった
*モンゴル高原にいた遊牧民の一部族が、突如として巨大な力を持った
*モンゴル人は、遊牧民族の国を滅ぼし、宋も滅ぼし、ユーラシア大陸の多くを支配する大帝国を築いた
*当時の世界人口の半数以上を統治する
☆大帝国は後にいくつかの国にわかれる
☆中国大陸を支配した元帝国の初代皇帝フビライ・ハーン
*日本をも服属させようと考えた
*高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきた
*朝廷は、蒙古からの国書にどう対応するかおろおろするばかりだった
☆北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した
*時宗は蒙古の胴喝に萎縮することはなかった
*日本国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていた
*時宗は、御家人たちに防御態勢を取れと命じて、蒙古軍の襲来に備える
☆フビライは、日本に軍隊を送り込んできた
*蒙古・高麗軍はまず対馬・壱岐を襲い、多くの島民を虐殺した
*蒙古・高麗軍の軍船は、2週間で引き上げた
*日本軍による攻撃で多大の損害を蒙ったためとも考えられている
*鎌倉武士の決死の戦いが蒙古軍を撤退させたのだ
☆蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたの約1,7万人と伝えられる
*現代では「台風説」は否定されている
*蒙古軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高い
弘安の役
☆鎌倉幕府は蒙古を撃退したが、次の備えとして博多湾沿岸の石塁建設をした
☆フビライは日本を服属させるために再び使節団を送ってきたが、時宗はその使者を斬首に処した
☆元は再度、日本侵攻のための軍隊を送り込んだ
*艦隊はそれまでの世界史上最大の規模であった
*兵士、水夫も約15万人にのぼり、「文永の役」の4倍にもなった
*フビライが日本との戦いに総力を挙げた
☆鎌倉の武士団は一致団結して蒙古軍を迎え撃つ
*元軍博多湾上陸を試みたが、鎌倉武士団の激しい抵抗にあい上陸を断念する
*元軍志賀島を占拠して、ここを軍船の停泊地とする
*日本軍は夜襲をかけて元軍を脅かす
*日本軍は、壱岐に総攻撃をかけた激戦が数日続き、元軍壱岐から撤退した
☆蒙古軍は日本軍の再度の襲来に怯え、軍船同士を鎖で縛って砦のようにした
☆九州北部を台風が襲い、蒙古軍の軍船の多くが沈没あるいは損壊した
☆軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、鷹島に約10万人の兵卒を置き去りにして撤退した
*残された蒙古軍は、日本軍の掃討戦に遭って、蒙古人と高麗人は皆殺しになった
*鷹島から本国に逃げ帰ることができた元軍兵士はわずかに二人だという
蒙古軍を襲った台風は、後に「神風」と呼ばれる
☆「神国日本には神のご加護がある」という一種の信仰のようなものが生まれた
☆台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑問である
☆蒙古軍は日本軍に苦戦しており、九州上陸が困難だった
*日本には地の利があり、援軍を送ることも可能だった
*蒙古軍の兵糧は、1月分を切っており、長期戦になれば持ちこたえられなかった
☆「神風信仰」は当時の朝廷によって広められた可能性がある
*蒙古に勝てたのは武士団の戦いのお陰ではない
*朝廷の祈祷によるものだとする方が朝廷の権威が高まるからだ
☆世界を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけ
*日本人として大いに胸を張ってもいいことだ
☆北条時宗は「弘安の役」の三年後、三十二歳の若さで世を去った
鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭
☆蒙古と戦った鎌倉幕府の御家人は甚大な犠牲を払った
☆当主や息子を失った者もいれば、戦の費用を捻出するために、土地や屋敷を売った者もいた
*日本が守られたのはそのお陰といえる
☆元との戦いは防衛戦であったため、日本側が得たもの(戦利品や領地)はなくい
☆幕府は御家人に十分な恩賞(土地や金)を与えることができなかつた
☆幕府は御家人に異国警固番役などを命じたため、御家人の暮らしぶりは一層悪化した
☆窮した御家人は商人から金を借り、その利子と返済に苦しむようになった
☆幕府は御家人を救うために、史上初の「徳政令」を出した
☆以降、商人は金を貸さなくなり、結果として御家人の窮乏が加速した
☆北条氏が権力を独占していたため、多くの武士の間に不満が蓄積していった
☆社会情勢から治安が乱れ、他人の土地や財産を奪う武士たちの集団「悪党」が生まれた
*現代でも使われる「悪党」の語源である
☆悪党は、朝廷や寺社とも手を結び、荘園領主や幕府と対立する存在となっていく
鎌倉の文化
☆鎌倉時代には文化の面でも革命的ともいえる変化が起こった
*優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へと変化した
☆文学は、『平家物語』『保元物語』『平治物語』などの軍記物語
☆随筆は、『徒然草』『方丈記』など「世の無常」を綴った傑作
☆彫刻は、運慶、快慶らが造立した『東大寺南大門金剛力士像』など
☆絵画は、『平治物語絵巻』や『蒙古襲来絵詞』など
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出典、『日本国紀』
時宗は、日本を蒙古から守るために生まれてきた男
(ネットより画像引用)
文永の役
☆中国大陸で、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル民族が、近隣の諸民族を吸収していった
*モンゴル高原にいた遊牧民の一部族が、突如として巨大な力を持った
*モンゴル人は、遊牧民族の国を滅ぼし、宋も滅ぼし、ユーラシア大陸の多くを支配する大帝国を築いた
*当時の世界人口の半数以上を統治する
☆大帝国は後にいくつかの国にわかれる
☆中国大陸を支配した元帝国の初代皇帝フビライ・ハーン
*日本をも服属させようと考えた
*高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきた
*朝廷は、蒙古からの国書にどう対応するかおろおろするばかりだった
☆北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した
*時宗は蒙古の胴喝に萎縮することはなかった
*日本国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていた
*時宗は、御家人たちに防御態勢を取れと命じて、蒙古軍の襲来に備える
☆フビライは、日本に軍隊を送り込んできた
*蒙古・高麗軍はまず対馬・壱岐を襲い、多くの島民を虐殺した
*蒙古・高麗軍の軍船は、2週間で引き上げた
*日本軍による攻撃で多大の損害を蒙ったためとも考えられている
*鎌倉武士の決死の戦いが蒙古軍を撤退させたのだ
☆蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたの約1,7万人と伝えられる
*現代では「台風説」は否定されている
*蒙古軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高い
弘安の役
☆鎌倉幕府は蒙古を撃退したが、次の備えとして博多湾沿岸の石塁建設をした
☆フビライは日本を服属させるために再び使節団を送ってきたが、時宗はその使者を斬首に処した
☆元は再度、日本侵攻のための軍隊を送り込んだ
*艦隊はそれまでの世界史上最大の規模であった
*兵士、水夫も約15万人にのぼり、「文永の役」の4倍にもなった
*フビライが日本との戦いに総力を挙げた
☆鎌倉の武士団は一致団結して蒙古軍を迎え撃つ
*元軍博多湾上陸を試みたが、鎌倉武士団の激しい抵抗にあい上陸を断念する
*元軍志賀島を占拠して、ここを軍船の停泊地とする
*日本軍は夜襲をかけて元軍を脅かす
*日本軍は、壱岐に総攻撃をかけた激戦が数日続き、元軍壱岐から撤退した
☆蒙古軍は日本軍の再度の襲来に怯え、軍船同士を鎖で縛って砦のようにした
☆九州北部を台風が襲い、蒙古軍の軍船の多くが沈没あるいは損壊した
☆軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、鷹島に約10万人の兵卒を置き去りにして撤退した
*残された蒙古軍は、日本軍の掃討戦に遭って、蒙古人と高麗人は皆殺しになった
*鷹島から本国に逃げ帰ることができた元軍兵士はわずかに二人だという
蒙古軍を襲った台風は、後に「神風」と呼ばれる
☆「神国日本には神のご加護がある」という一種の信仰のようなものが生まれた
☆台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑問である
☆蒙古軍は日本軍に苦戦しており、九州上陸が困難だった
*日本には地の利があり、援軍を送ることも可能だった
*蒙古軍の兵糧は、1月分を切っており、長期戦になれば持ちこたえられなかった
☆「神風信仰」は当時の朝廷によって広められた可能性がある
*蒙古に勝てたのは武士団の戦いのお陰ではない
*朝廷の祈祷によるものだとする方が朝廷の権威が高まるからだ
☆世界を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけ
*日本人として大いに胸を張ってもいいことだ
☆北条時宗は「弘安の役」の三年後、三十二歳の若さで世を去った
鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭
☆蒙古と戦った鎌倉幕府の御家人は甚大な犠牲を払った
☆当主や息子を失った者もいれば、戦の費用を捻出するために、土地や屋敷を売った者もいた
*日本が守られたのはそのお陰といえる
☆元との戦いは防衛戦であったため、日本側が得たもの(戦利品や領地)はなくい
☆幕府は御家人に十分な恩賞(土地や金)を与えることができなかつた
☆幕府は御家人に異国警固番役などを命じたため、御家人の暮らしぶりは一層悪化した
☆窮した御家人は商人から金を借り、その利子と返済に苦しむようになった
☆幕府は御家人を救うために、史上初の「徳政令」を出した
☆以降、商人は金を貸さなくなり、結果として御家人の窮乏が加速した
☆北条氏が権力を独占していたため、多くの武士の間に不満が蓄積していった
☆社会情勢から治安が乱れ、他人の土地や財産を奪う武士たちの集団「悪党」が生まれた
*現代でも使われる「悪党」の語源である
☆悪党は、朝廷や寺社とも手を結び、荘園領主や幕府と対立する存在となっていく
鎌倉の文化
☆鎌倉時代には文化の面でも革命的ともいえる変化が起こった
*優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へと変化した
☆文学は、『平家物語』『保元物語』『平治物語』などの軍記物語
☆随筆は、『徒然草』『方丈記』など「世の無常」を綴った傑作
☆彫刻は、運慶、快慶らが造立した『東大寺南大門金剛力士像』など
☆絵画は、『平治物語絵巻』や『蒙古襲来絵詞』など
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』
時宗は、日本を蒙古から守るために生まれてきた男
(ネットより画像引用)