飛鳥時代~平城京1
飛鳥時代(6世紀後半~8世紀初頭)
☆古墳時代が終わり、第32代崇峻天皇の時代から百年位が飛鳥時代
☆日本は朝鮮半島の経営にあまり力を注いでいない
*朝鮮半島における影響力も低下している
*日本支配地、朝鮮半島の任那が新羅によって滅ぼされている
☆継体天皇即位に関係した内戦で、海外にまで手を広げる余裕を失っていたのかも
☆蘇我氏と物部氏の間で争いが起き、物部氏が滅ぼされ、仏教を受け入れることとなった
*神道は一神教のように、他の宗教を排斥したり敵視したりするものではない
*そのため、日本は仏教をも受け入れることができた
☆蘇我氏は、継体天皇の孫崇峻天皇を殺害
*蘇我氏は、第23代推古天皇を立て大きな権力を握る
☆推古天皇時代に、日本は失った任那を取り返すために朝鮮半島に軍を送る
推古天皇を摂政として補佐した聖徳太子
☆聖徳太子は、大伯父にあたる蘇我馬子とともに政治の実権を握る
☆太子は大陸から仏教を入れ、日本全国に広めた
☆朝鮮半島の百済、新羅、高句麗は隋から冊封を受けた
*「冊封」とは隋の臣下になるということである
*冊封国の首長は隋の皇帝から「王」に任ぜられる
☆聖徳太子は、新羅の宗主国である隋との関係を良好に保つため遣隋使を送った
聖徳太子の凄さ
☆隋への隋皇帝あての親書の書き出し
*「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」という文章
*隋の皇帝、煬帝はその手紙を読んで激怒したと伝えられる
*煬帝が怒ったのは、「天子」という言葉が使われていたからである
*「天子」は中国の皇帝を指す言葉で、世界に一人しか存在しない
*「王」は中国の皇帝が臣下に与える位のようなものである(卑弥呼の「親魏倭王」など)
☆太子は隋に対して、「日本は決して冊封を受けない、隋と対等な国である」という気概を示した
☆煬帝は聖徳太子の手紙を無視するということはせず
*日本という国が侮れない国力を持っていた証と考えられる
*朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対
☆日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになる
☆太子は「天皇」という言葉を編み出した
*手紙の書き出し「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」
*太子は「天皇」という言葉を用いる
*中国の皇帝と対等の立場であるということを表わした
☆日本における「天皇」という名称の始まりとなった
☆それまでは「大王」と呼ばれていたのが、「天皇」という呼称に代わった
☆「天皇」という言葉には、日本が独立の国であるという精神が込められている
聖徳太子が作成した十七条憲法の凄さ
☆聖徳太子が制定したといわれる、日本初の成文法「十七条憲法」
☆為政者である天皇の権威と力を誇示する文言はほとんどない
☆人々が平和に暮らしていくための道徳規範が記されている
☆第一条
*「仲良くすることが何よりも大切で、争いごとは良くない」といっている
*この後、「何事も話し合いで決めよう」と続く
*言い換えれば「民主主義」である
☆第二条
*「仏教を大切にせよ」と書かれている
*仏教は太子自身が積極的に普及させたもの
*太子はそれさえも第一条に置かずに二番目に持ってきている
☆第三条
*「天皇の詔を大切にせよ」と書かれている
*聖徳太子は天皇の摂政であり、皇太子であった
*これを最初に持ってきても何ら不思議ではない
*太子はこれを三番目に置いた
☆天皇の権威よりも、「和=話し合うこと」や「仏の教え」の方が大切だと言っている
*「天皇」そのものではなく、天皇の「詔」を大切にせよと書かれている
*個人崇拝を求めていないということを意味している
「十七条憲法」は実は聖徳太子の作ではないとの説も
☆8世紀の『日本書紀』編纂時に、聖徳太子が作ったことにして誰かが創作したという説
☆「十七条憲法」が8世紀に作られたものであっても、その先進性は少しも損なわれるものではない
☆『日本書紀』の編纂が開始されたのは、第40代天武天皇の御代
*天皇の権力が絶大な時代である
☆その時代に「和と、話し合うことの大切さを謳った」憲法をよしとして創作する、凄いことである
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
天皇の語源&卓越した十七条憲法の内容(ネットより画像引用)
飛鳥時代(6世紀後半~8世紀初頭)
☆古墳時代が終わり、第32代崇峻天皇の時代から百年位が飛鳥時代
☆日本は朝鮮半島の経営にあまり力を注いでいない
*朝鮮半島における影響力も低下している
*日本支配地、朝鮮半島の任那が新羅によって滅ぼされている
☆継体天皇即位に関係した内戦で、海外にまで手を広げる余裕を失っていたのかも
☆蘇我氏と物部氏の間で争いが起き、物部氏が滅ぼされ、仏教を受け入れることとなった
*神道は一神教のように、他の宗教を排斥したり敵視したりするものではない
*そのため、日本は仏教をも受け入れることができた
☆蘇我氏は、継体天皇の孫崇峻天皇を殺害
*蘇我氏は、第23代推古天皇を立て大きな権力を握る
☆推古天皇時代に、日本は失った任那を取り返すために朝鮮半島に軍を送る
推古天皇を摂政として補佐した聖徳太子
☆聖徳太子は、大伯父にあたる蘇我馬子とともに政治の実権を握る
☆太子は大陸から仏教を入れ、日本全国に広めた
☆朝鮮半島の百済、新羅、高句麗は隋から冊封を受けた
*「冊封」とは隋の臣下になるということである
*冊封国の首長は隋の皇帝から「王」に任ぜられる
☆聖徳太子は、新羅の宗主国である隋との関係を良好に保つため遣隋使を送った
聖徳太子の凄さ
☆隋への隋皇帝あての親書の書き出し
*「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」という文章
*隋の皇帝、煬帝はその手紙を読んで激怒したと伝えられる
*煬帝が怒ったのは、「天子」という言葉が使われていたからである
*「天子」は中国の皇帝を指す言葉で、世界に一人しか存在しない
*「王」は中国の皇帝が臣下に与える位のようなものである(卑弥呼の「親魏倭王」など)
☆太子は隋に対して、「日本は決して冊封を受けない、隋と対等な国である」という気概を示した
☆煬帝は聖徳太子の手紙を無視するということはせず
*日本という国が侮れない国力を持っていた証と考えられる
*朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対
☆日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになる
☆太子は「天皇」という言葉を編み出した
*手紙の書き出し「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」
*太子は「天皇」という言葉を用いる
*中国の皇帝と対等の立場であるということを表わした
☆日本における「天皇」という名称の始まりとなった
☆それまでは「大王」と呼ばれていたのが、「天皇」という呼称に代わった
☆「天皇」という言葉には、日本が独立の国であるという精神が込められている
聖徳太子が作成した十七条憲法の凄さ
☆聖徳太子が制定したといわれる、日本初の成文法「十七条憲法」
☆為政者である天皇の権威と力を誇示する文言はほとんどない
☆人々が平和に暮らしていくための道徳規範が記されている
☆第一条
*「仲良くすることが何よりも大切で、争いごとは良くない」といっている
*この後、「何事も話し合いで決めよう」と続く
*言い換えれば「民主主義」である
☆第二条
*「仏教を大切にせよ」と書かれている
*仏教は太子自身が積極的に普及させたもの
*太子はそれさえも第一条に置かずに二番目に持ってきている
☆第三条
*「天皇の詔を大切にせよ」と書かれている
*聖徳太子は天皇の摂政であり、皇太子であった
*これを最初に持ってきても何ら不思議ではない
*太子はこれを三番目に置いた
☆天皇の権威よりも、「和=話し合うこと」や「仏の教え」の方が大切だと言っている
*「天皇」そのものではなく、天皇の「詔」を大切にせよと書かれている
*個人崇拝を求めていないということを意味している
「十七条憲法」は実は聖徳太子の作ではないとの説も
☆8世紀の『日本書紀』編纂時に、聖徳太子が作ったことにして誰かが創作したという説
☆「十七条憲法」が8世紀に作られたものであっても、その先進性は少しも損なわれるものではない
☆『日本書紀』の編纂が開始されたのは、第40代天武天皇の御代
*天皇の権力が絶大な時代である
☆その時代に「和と、話し合うことの大切さを謳った」憲法をよしとして創作する、凄いことである
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』
天皇の語源&卓越した十七条憲法の内容(ネットより画像引用)